労働問題371 具体的に発生した賃金請求権を事後に締結された労働協約により処分又は変更することは許されますか。

この記事の要点

具体的に発生した賃金請求権を、事後に締結された労働協約によって処分または変更することは許されない(香港上海銀行事件・最高裁平成元年9月7日第一小法廷判決)

労働協約の規範的効力は、将来の労働条件の変更に作用するものであり、既発生の賃金請求権には及びません

「労働組合が同意したのだから過去分も変更できる」という発想は誤り。既発生の賃金請求権は個々の労働者に帰属した権利であり、労働組合は一方的に処分・放棄できない

この点を見落として労働協約を締結しても、過去分の賃金請求権は消えません

同一の事案では就業規則の遡及適用による変更も許されない(376番参照)。既発生の賃金請求権を事後的に消滅させる手段は原則として存在しない

賃金制度の変更は将来に向かってのみ効力を持ちます

01問題の所在。「過去分も含めて変更できるか」という論点

 368番〜370番では、労働協約の規範的効力(労組法16条)および一般的拘束力(労組法17条)を通じて、賃金を変更する方法を解説しました。労働協約は強い規範的効力を持ち、組合員個人の反対があっても賃金変更が可能というのが原則です(369番参照)。

 しかし、ここで重要な限界が生じます。「会社と労働組合が合意した以上、過去分も含めて賃金を変更できるのではないか」という発想です。例えば、既に発生していた割増賃金(残業代)の請求権を、事後に締結した労働協約によって消滅させたり減額したりすることができるか、という問題です。この点について、最高裁判所は明確な判示を示しています。

02香港上海銀行事件。最高裁の明確な判示

 この問題を正面から判示したのが、香港上海銀行事件(最高裁平成元年9月7日第一小法廷判決)です。

香港上海銀行事件(最高裁平成元年9月7日第一小法廷判決)の判示

事案の概要:従業員が残業代(割増賃金)の支払いを請求したところ、使用者側は事後に締結した労働協約によってその請求権は消滅した旨を主張した

最高裁の判示:具体的に発生した賃金請求権を、事後に締結された労働協約によって処分または変更することは許されない

意義:労働協約の規範的効力(労組法16条)は将来の労働条件を規律するものであり、既に個々の組合員に帰属した具体的な賃金請求権を、組合が労働協約を通じて処分・変更する権限は認められない

 この判決は、同じ事案において「就業規則の遡及適用によっても既発生の賃金請求権を処分・変更することはできない」とも判示しており(376番参照)、既発生の賃金請求権の保護という観点から一貫した立場を示しています。

03「具体的に発生した賃金請求権」とは何か

 「具体的に発生した賃金請求権」とは、既に労働者が履行した労働の対価として発生し、個々の労働者に帰属した状態の賃金請求権をいいます。例えば、時間外労働を実際に行ったことで発生した割増賃金の請求権や、支払期日が到来した給与の請求権などが該当します。

 これに対して、将来の賃金条件(例:来月からの基本給の額)は、労働協約を締結した時点ではまだ具体的に発生していない権利であり、労働協約による変更が可能です。労働協約の規範的効力が有効に機能するのは、この「将来の労働条件」の場面です。

 この区別が重要です。「過去に働いて既に発生した権利」と「将来の条件の取り決め」を混同したまま制度設計を行うと、労働協約を締結しても過去分の請求権は消えないという現実に直面することになります。

04なぜ事後の労働協約による変更が許されないのか

 事後の労働協約によって既発生の賃金請求権を変更・消滅させることが許されない理由は、その権利の性質にあります。具体的に発生した賃金請求権は、個々の労働者が自ら行った労働の対価として取得した私法上の財産的権利です。この権利は、発生した時点で労働者個人に帰属します。

 労働組合は、集団的労使関係における組合員全体の代表として、将来の労働条件について会社と交渉し合意する権限を持ちます(労組法16条の規範的効力)。しかし、既に個々の組合員に帰属した財産的権利を、当該組合員の同意なしに組合が一方的に処分・放棄する権限を持つわけではありません。

 もし事後の労働協約によって既発生の賃金請求権を変更できるとすれば、使用者が残業代を支払わずに組合と協約を締結するだけで、労働者の既得権を消滅させることが可能になります。これは労働者保護の観点から許容できない結果であり、最高裁もこれを明確に否定しています。

05会社経営者が留意すべき実務上のポイント

 この法理は、会社経営者にとって極めて重要な実務上の含意を持ちます。

「組合と合意したから過去分は問題ない」という発想の危険性

未払い残業代等が存在する状態で、事後に組合との間で「これ以上の請求は行わない」旨を含む労働協約を締結しても、具体的に発生した賃金請求権は消滅しません。個々の労働者は、その協約とは別に、自らの賃金請求権を行使することができます。

したがって、未払い残業代の問題を労働協約によって「解決した」と考えることは危険です。個々の労働者が訴訟・労働審判で請求権を行使した場合、協約の存在は防御にならない可能性があります。

 実務上、既発生の賃金請求権を有効に処理するためには、個々の労働者との個別合意(和解・放棄の合意)が必要となります。ただし、その場合も合意の有効性(自由意思性等)が問われますので(372番・373番参照)、具体的な対応については使用者側弁護士に相談することをお勧めします。

06まとめ

 具体的に発生した賃金請求権を、事後に締結された労働協約によって処分または変更することは許されません(香港上海銀行事件・最高裁平成元年9月7日)。労働協約の規範的効力は将来の労働条件を規律するものであり、既に個々の労働者に帰属した財産的権利を組合が一方的に処分する権限は認められません。「組合と合意したから過去分も解決した」という発想は誤りであり、既発生の賃金請求権は個別の合意がなければ消滅しません。同様に、就業規則の遡及適用によっても既発生の賃金請求権を変更することはできません(376番参照)。既発生の賃金請求権の処理については、使用者側弁護士のサポートを受けながら慎重に対応することをお勧めします。アドバイスします。

SUPERVISOR 弁護士 藤田 進太郎

監修者

弁護士法人四谷麹町法律事務所 代表弁護士 藤田 進太郎

東京大学法学部卒業。2003年弁護士登録。日本弁護士連合会会員労働法制委員会委員・事務局次長・最高裁行政局との労働審判制度に関する協議会協議員、第一東京弁護士会労働法制委員会委員・研修部会副部会長、経営法曹会議会員・第112回経団連労働法フォーラム報告担当者、労働審判員連絡協議会特別会員、日本労働法学会会員、東京麹町ロータリークラブ会員・2023-24年度幹事。
講演・著作 / 「会社経営者のための問題社員対応講座」(YouTube)

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Q&Aよくある質問

Q1. 未払い残業代が発生している状態で、組合と「今後は追加請求しない」旨の協約を締結しました。個々の従業員からの請求を防ぐことはできますか。

A. できません。具体的に発生した賃金請求権は組合が処分する権限を持たないため、事後の労働協約によっても消滅しません。個々の労働者は自らの賃金請求権を別途行使することができます。既発生の賃金請求権を有効に処理するためには、個々の労働者との個別合意(和解等)が必要となります。

Q2. 就業規則を変更して既発生の賃金を変更することはできますか。

A. できません。就業規則の遡及適用によって具体的に発生した賃金請求権を処分または変更することも、香港上海銀行事件(最高裁平成元年9月7日)により許されないと判示されています(376番参照)。いずれの手段によっても、既発生の賃金請求権を事後的に変更・消滅させることは原則として許されません。

最終更新日:2026年5月31日

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