労働問題376 具体的に発生した賃金請求権を事後に変更された就業規則の遡及適用により処分又は変更することは許されますか。
|
✓
|
具体的に発生した賃金請求権を、事後に変更された就業規則の遡及適用によって処分または変更することは許されない(香港上海銀行事件・最高裁平成元年9月7日第一小法廷判決) 就業規則の変更は将来に向かって効力を持つものであり、過去に発生した権利には遡及しません |
|
✓
|
労働協約の事後変更でも(371番)、就業規則の遡及適用でも(本記事)、既発生の賃金請求権を変更・消滅させることはできない。どちらの手段によっても同じ結論 「就業規則を変更してから遡及させれば過去分を処理できる」という発想は誤りです |
|
✓
|
既発生の賃金請求権を有効に処理するためには、個々の労働者との個別合意(和解等)が必要。その有効性も自由意思性等の観点から問われる 事前の制度設計が最大の防御であり、発生した後では処理が困難になります |
目次
01本記事の位置づけ。371番との関係
371番では、具体的に発生した賃金請求権を事後に締結された労働協約によって処分・変更することは許されないという最高裁の判示(香港上海銀行事件・最高裁平成元年9月7日)を解説しました。本記事では、同じ事件において同時に判示された「就業規則の遡及適用による変更」についての論点を解説します。
つまり、会社が未払い賃金等の問題を「事後的に変更する」手段として、①労働協約の締結と②就業規則の遡及適用という2つの方法を検討した場合、どちらも許されないという結論が同一の最高裁判決によって示されています。
02就業規則の遡及適用による変更も許されない。香港上海銀行事件の判示
香港上海銀行事件(最高裁平成元年9月7日第一小法廷判決)の判示(就業規則遡及適用に関する部分)
判示内容:具体的に発生した賃金請求権を、事後に変更された就業規則の遡及適用によって処分または変更することは許されない
意義:就業規則の変更は将来の労働条件を規律するものであり、既に個々の労働者に帰属した具体的な賃金請求権を、事後的な就業規則の変更によって遡及的に消滅・変更させることは認められない
03「遡及適用」とはどういう手法か
「就業規則の遡及適用」とは、就業規則を変更した際に、その変更の効力を変更前の過去の時点にまで遡って適用しようとする手法です。例えば、「この就業規則の改定は、○年○月○日(変更前の日付)から適用する」という形で規定するケースが該当します。
一見すると、就業規則の変更が有効であれば(373番・375番参照)、遡及適用も可能に思えるかもしれません。しかし最高裁は、就業規則変更の合理性・有効性という問題と、既発生の賃金請求権への遡及という問題は別次元の問題であるとして、後者を明確に否定しています。
04なぜ遡及適用による変更が許されないのか
就業規則の遡及適用によって既発生の賃金請求権を変更・消滅させることが許されない理由は、371番で解説した労働協約の場合と同じです。具体的に発生した賃金請求権は、個々の労働者が自ら行った労働の対価として発生した財産的権利であり、その時点で労働者に帰属しています。
就業規則は使用者が作成するものですが、その変更が将来の労働条件を変更する効力を持つ(373番参照)からといって、過去に発生した権利を遡って変更・消滅させる効力を持つわけではありません。もし就業規則の遡及適用によって既発生の賃金請求権を変更できるとすれば、使用者が就業規則を遡及適用するという形式をとるだけで、労働者の既得権を一方的に消滅させることが可能になります。これは労働者保護の観点から明らかに許容できない結果であり、最高裁もこれを否定しています。
05会社経営者が取るべき実務上の対応
既発生の賃金請求権を有効に処理するためには、個々の労働者との個別合意(和解・放棄の合意等)によるしかありません。ただし、この場合も合意の有効性(自由意思性・説明の十分性等)が厳しく問われます(372番参照)。また、合意の内容や形式については使用者側弁護士のサポートを受けながら慎重に進めることが必要です。
結局のところ、既発生の賃金請求権を巡る問題の最大の防御は「発生した後の対処」ではなく「発生させない制度設計」です。適法な賃金制度の構築・適正な労働時間管理・有効な固定残業代制度の設計(350番〜358番参照)を平時から徹底することが、根本的な解決策となります。
06まとめ。既発生の賃金請求権を変更する手段は原則として存在しない
具体的に発生した賃金請求権を、事後に変更された就業規則の遡及適用によって処分または変更することは許されません(香港上海銀行事件・最高裁平成元年9月7日)。就業規則の変更は将来に向かって効力を持つものであり、過去に労働者に帰属した財産的権利に遡及する効力は認められません。事後の労働協約による変更も(371番)、就業規則の遡及適用による変更も(本記事)、どちらの手段によっても既発生の賃金請求権を変更・消滅させることはできません。既発生の賃金請求権を処理する唯一の方法は個々の労働者との個別合意であり、その有効性も厳しく問われます。根本的な解決策は、適法な賃金制度を平時から構築することにあります。使用者側弁護士のサポートを受けながら対応することをお勧めします。アドバイスします。
監修者
弁護士法人四谷麹町法律事務所 代表弁護士 藤田 進太郎
東京大学法学部卒業。2003年弁護士登録。日本弁護士連合会会員労働法制委員会委員・事務局次長・最高裁行政局との労働審判制度に関する協議会協議員、第一東京弁護士会労働法制委員会委員・研修部会副部会長、経営法曹会議会員・第112回経団連労働法フォーラム報告担当者、労働審判員連絡協議会特別会員、日本労働法学会会員、東京麹町ロータリークラブ会員・2023-24年度幹事。
講演・著作 / 「会社経営者のための問題社員対応講座」(YouTube)
日本全国各地の会社経営者の皆様へ
賃金変更・未払い賃金の処理・就業規則変更でお悩みの会社経営者の方はご相談ください。事務所会議室での経営労働相談のほか、ZoomやTeamsでのオンライン経営労働相談を実施しています。アドバイスします。
Q&Aよくある質問
Q1. 就業規則に「この規定は○年○月○日(過去の日付)から適用する」と定めれば、過去分の賃金請求権を消滅させることができますか。
A. できません。就業規則の遡及適用によって具体的に発生した賃金請求権を処分または変更することは許されないと最高裁が判示しています(香港上海銀行事件・最高裁平成元年9月7日)。遡及適用という形式をとっても、過去に労働者に帰属した賃金請求権を消滅させる効力は認められません。
Q2. 既発生の賃金請求権を従業員に放棄させる合意書を締結することはできますか。
A. 個々の労働者が自由意思に基づいて賃金請求権を放棄・和解する合意は、一定の要件のもとで有効となり得ます。ただし、裁判所は自由意思性について厳しく審査します(外部からの圧力・情報格差・説明の十分性等)。また、放棄の合意が後に「強迫された」「内容を理解していなかった」等の理由で争われるリスクもあります。具体的な対応については使用者側弁護士に相談することをお勧めします。
関連ページ(賃金変更シリーズ)
最終更新日:2026年5月31日