この記事の要点

  • 労働基準法37条(割増賃金の支払義務)は強行規定です。将来の残業代を支払わないとの合意は、書面であっても労使合意があっても無効となります。
  • 既に発生した残業代債権の放棄については、最高裁判例の基準(労働者の自由な意思・合理的理由の客観的存在)を満たす場合に限り有効とされる余地があります。
  • 合意書があっても無効であるため、後から請求された場合は過去3年分の未払残業代の支払義務が生じます。さらに付加金(未払額と同額)の制裁リスクもあります。
  • 適法に残業代コストを抑制したい場合は、定額残業代制度・変形労働時間制・フレックスタイム制などの合法的な制度の導入を検討する必要があります。

01「残業代なし合意」の有効性に関する誤解

「採用時に残業代は支払わないという内容の合意書を取り交わした」「従業員から残業代は要らないと言われ、書面に署名してもらった」という話は、会社経営者や人事担当者からよく聞かれます。しかし、このような合意が法的に有効かどうかについては、多くの経営者が誤解しています。

結論を先に述べると、将来発生する残業代を放棄させるための合意は、労働基準法の強行規定に反するため無効です。どれだけ明確な書面を用意していても、当事者双方が合意していても、法的効力を持ちません。合意書があるから安心と思っていると、後に多額の未払残業代請求を受けるリスクがあります。

02労働基準法37条は強行規定

労働基準法37条は、使用者が時間外労働・休日労働・深夜労働をさせた場合に、一定の割増率以上の割増賃金(残業代)を支払わなければならないと定めています。この規定は強行規定です。

強行規定とは、当事者の合意によっても変更・排除することができない規定です。民法の多くの規定は当事者の合意で変更できますが、労働基準法の保護規定の多くは強行規定とされており、労働者に不利な内容の合意は無効となります。

労働基準法1条2項には「この法律で定める労働条件の基準は最低のものであるから、労働関係の当事者は、この基準を理由として労働条件を低下させてはならない」と規定されています。つまり、労基法の基準は労働条件の最低ラインを定めるものであり、これを下回る合意は、たとえ労使双方が納得していても法的効力を持たないのです。

03将来の残業代を放棄する合意は無効

将来発生する残業代(まだ発生していない割増賃金債権)を支払わない、または放棄するという合意は、労働基準法37条違反として無効です。具体的には以下のような合意がすべて無効となります。

  • 「当社では残業代は支払わない」という就業規則や雇用契約書の規定
  • 「残業代の請求権を放棄する」という入社時の誓約書
  • 「残業代を請求しない」という労働者の口頭または書面での約束
  • 「残業代相当分は基本給に含まれる」という曖昧な規定(有効な定額残業代制度の要件を満たさないもの)

これらの合意は、仮に労働者側から自発的に申し出たものであっても無効です。労働基準法は労働者保護のための法律であり、労働者自身が放棄の意思を示しても、強行規定を排除することはできません。

重要な注意点

「残業代なし」の合意書があっても、従業員から未払残業代を請求された場合、会社は支払義務を免れることができません。合意書の存在は裁判・労働審判において会社側の有効な防御手段にはなりません。

04既発生の残業代債権の放棄について

将来の残業代とは異なり、既に発生した残業代債権(過去の残業に対する支払請求権)の放棄については、一般の賃金債権の放棄と同様の法的基準で判断されます。

最高裁の判断基準

最高裁判所は、シンガー・ソーイング・メシーン事件(昭和48年1月19日判決)において、賃金債権の放棄の意思表示が有効となるためには、「労働者の自由な意思に基づいてなされたものであると認めるに足る合理的な理由が客観的に存在している場合」に限られると判示しています。

既発生の残業代債権の放棄についても、この基準が適用されます。つまり、放棄が有効とされるためには、単に書面にサインしてもらうだけでは足りず、以下のことが必要です。

  • 労働者が放棄の法的意味を正確に理解していること
  • 労働者が自由な意思に基づいて放棄の意思表示をしていること(強制・誘導・脅迫がないこと)
  • 放棄することについて、客観的に合理的な理由が存在すること

放棄が無効となるケース

以下のような状況での放棄は、有効な放棄とは認められない可能性が高いです。退職交渉の場で「残業代請求を諦めないと退職金を払わない」と迫った場合、残業代の存在や金額を労働者に明示しないまま放棄させた場合、就業規則や誓約書に自動的に放棄する旨を定めた場合などは、いずれも労働者の自由な意思に基づく放棄とは言えません。

05無効な合意を続けた場合のリスク

「残業代なし」の合意書を交わしながら残業代を支払わずに業務をさせ続けた場合、会社には深刻なリスクが蓄積していきます。

未払残業代の遡及請求リスク

未払残業代の請求権には時効があります。2020年4月以降に発生した残業代については3年間(それ以前は2年間)の時効が適用されます。退職した元従業員が「合意書は無効だ」として過去3年分の残業代を一括請求してくる可能性があります。在籍期間が長く、残業時間が多い従業員であれば、その総額は数百万円に上ることもあります。

付加金の支払命令リスク

裁判所は、割増賃金を支払わない使用者に対して、未払額と同一額の「付加金」の支払いを命じることができます(労働基準法114条)。悪質と判断された場合、未払残業代と同額の付加金が加算され、実質的に2倍の支払いを命じられるリスクがあります。「合意書があったから払わなかった」という事情は、悪質性を否定する根拠にはなりにくいです。

労働審判・訴訟リスク

従業員や退職した元従業員から労働審判や民事訴訟を起こされる可能性があります。労働審判は申立てから原則3回以内の期日で終結する迅速な手続きであり、適切に対応しなければ会社に不利な調停や審判が下されます。労働審判や訴訟に対応するための弁護士費用・時間的コストも無視できません。

労働基準監督署の調査・是正勧告リスク

労働基準監督署から定期調査や申告に基づく調査が入った場合、残業代未払いが発覚すれば是正勧告の対象となります。是正勧告に従わない場合は送検・起訴の可能性もあります。また、調査の事実が社内に広まれば従業員の信頼喪失にもつながります。

06適法に残業代を抑制するための方法

残業代を「払わない」ことはできませんが、適法な制度を活用することで残業代の発生を抑制したり、コストを予測可能な形にしたりすることは可能です。

定額残業代(みなし残業代)制度の活用

一定時間分の残業代をあらかじめ基本給や手当に組み込む制度です。有効要件(割増賃金部分の金額と対応時間数の明示、実際の残業が想定時間を超えた場合の追加支払い)を満たす必要がありますが、適切に運用すれば残業代コストの予測・管理がしやすくなります。

変形労働時間制・フレックスタイム制の導入

業務の繁閑に応じて労働時間を弾力的に配分できる制度です。適法に導入することで、特定の日に長時間労働があっても変形期間全体の平均が法定労働時間以内であれば残業代が発生しない場合があります。

業務効率化による実残業時間の削減

制度面だけでなく、業務プロセスの改善やITツールの活用によって実際の残業時間を減らすことが、最も根本的な解決策です。ノー残業デーの設定・業務の標準化・会議の効率化などに取り組むことで、残業代コストそのものを下げることができます。

監修者

弁護士法人四谷麹町法律事務所 代表弁護士 藤田 進太郎

東京大学法学部卒業。2003年弁護士登録。日本弁護士連合会会員労働法制委員会委員・事務局次長・最高裁行政局との労働審判制度に関する協議会協議員、第一東京弁護士会労働法制委員会委員・研修部会副部会長、経営法曹会議会員・第112回経団連労働法フォーラム報告担当者、労働審判員連絡協議会特別会員、日本労働法学会会員、東京麹町ロータリークラブ会員・2023-24年度幹事。
講演・著作 / 「会社経営者のための問題社員対応講座」(YouTube)


日本全国各地の会社経営者の皆様へ

弁護士法人四谷麹町法律事務所代表弁護士の藤田進太郎です。私は、労働問題のストレスから会社経営者の皆様を解放したいという強い思いを持っており、日本全国各地の会社経営者のために、問題社員、労働審判、残業代トラブルなどの労働問題の予防解決に当たっています。問題社員、労働審判、残業代トラブルでお悩みでしたら、弁護士法人四谷麹町法律事務所にご相談ください。事務所会議室での経営労働相談のほか、ZoomやTeamsでのオンライン経営労働相談を実施しています。

07よくある質問

Q1. 採用時に「残業代なし」の合意書にサインしてもらいましたが、後から請求されますか?

はい、請求される可能性があります。将来の残業代を放棄する合意は労働基準法37条(強行規定)違反で無効です。合意書があっても法的効力はなく、後から労働者が未払残業代を請求した場合、会社は支払義務を免れることができません。

Q2. 既に退職した社員から残業代を請求されました。請求には時効はありますか?

時効があります。2020年4月以降に発生した残業代については3年間、それ以前のものは2年間の時効期間があります。時効期間内の未払残業代については、たとえ退職後であっても請求を受ける可能性があります。

Q3. 定額残業代制度(みなし残業代)で残業代を固定化することはできますか?

有効な定額残業代制度を設けることで、一定時間分の残業代を固定化することは可能です。ただし、割増賃金部分の金額と対応時間数を明示すること、実際の残業がみなし時間を超えた場合に超過分を追加支払いすることが必要です。要件を満たさない場合は無効とされるリスクがあります。

Q4. 退職時に「残業代を請求しない」という誓約書を書いてもらいました。効力はありますか?

最高裁の基準によれば、労働者が放棄の法的意味を正確に理解したうえで、自由な意思に基づいて放棄したと認めるに足る合理的な理由が客観的に存在する場合に限り、既発生の残業代債権の放棄は有効とされる余地があります。強制・脅迫・誘導による誓約書や、残業代の具体的な金額を知らせないままサインさせた場合は無効とされるリスクがあります。

Q5. 「残業代を払わなくていい」という従業員の自発的な申し出があった場合も無効ですか?

将来の残業代についてはそのとおりです。労働基準法37条は強行規定であり、労働者が自ら放棄を申し出たとしても、将来発生する残業代を免除する効力はありません。既発生の残業代については、労働者の自由な意思・合理的理由の要件を満たす場合にのみ有効となり得ます。

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最終更新日:2026年5月19日