労働問題930 賃金債権の放棄はいつ有効か|自由な意思が問われる判断基準と裁判例

1. 賃金債権放棄に関する基本的な考え方

 賃金は、労働者の生活を支える基盤であることから、労働法上、極めて強い保護が与えられています。そのため、すでに発生した賃金債権を労働者が放棄することについては、原則として慎重に判断されます。

 もっとも、賃金債権の放棄が常に無効とされるわけではありません。裁判実務では、労働者が自己の判断により、自由な意思に基づいて賃金債権を放棄したと認められる場合には、その放棄は有効とされ得ると考えられています。

 ここで重要なのは、賃金債権の放棄が、使用者の一方的な要請や、事実上拒否できない状況のもとで行われたものではないかという点です。会社経営者の優越的地位のもとでなされた意思表示については、形式的に合意が存在していても、自由な意思に基づくものとは認められない可能性があります。

 したがって、賃金債権放棄の有効性は、「放棄するとの意思表示があったか」では足りず、その意思表示に至る経緯や状況を含めて、自由意思が認められるかどうかが中心的な判断要素となります。

 会社経営者としては、賃金債権放棄を前提とした対応は、例外的な場面に限られることを理解し、後に紛争となった場合でも、その放棄が労働者の自由な意思によるものであったと説明できるかという視点を常に持つことが重要です。

2. 賃金債権放棄に求められる「自由な意思」

 賃金債権の放棄が有効と認められるための中核的要件は、労働者の意思表示が自由な意思に基づくものであることです。これは、単に放棄する旨の書面が存在するかどうかでは判断されません。

 裁判実務では、労働者が置かれていた立場や状況を踏まえ、実質的に放棄を拒否できたかどうかという観点から、自由意思の有無が検討されます。特に、在職中の労働者は、使用者との間に指揮命令関係があり、雇用継続への不安を抱きやすい立場にあるため、その意思表示については慎重に判断されます。

 自由な意思が認められるか否かを判断するにあたっては、例えば、
・賃金債権放棄に至った経緯が、労働者自身の発意によるものか
・会社から強い要請や事実上の圧力がなかったか
・放棄の内容や不利益について十分な説明がなされていたか
・放棄により労働者が著しい生活上の不利益を被らないか
といった事情が総合的に考慮されます。

 また、退職時における放棄か、在職中における放棄かによっても、評価は異なります。一般に、退職後の労働者は、在職中に比べて使用者の影響力が弱まるため、自由な意思が認められやすい傾向にあります。

 会社経営者としては、「本人が了承した」「文書に署名している」という形式面だけに依拠するのではなく、その合意が自由な意思に基づくものと客観的に評価されるかという点を重視して対応する必要があります。

3. 賃金債権放棄が有効とされた裁判例

 賃金債権の放棄について、労働者の自由な意思に基づくものとして有効と判断された代表的な裁判例が、シンガー・ソーイング・メシーン・カムパニー事件判決(最高裁第二小法廷昭和48年1月19日判決)です。

 本件は、在職中における経費使用について会社が疑惑を抱き、これにより生じた損害の一部を填補する目的で、退職者が退職金を放棄する旨の意思表示をしたという事案です。会社側が一方的に放棄を強制したのではなく、退職者自身が状況を踏まえて放棄の意思を示していました。

 最高裁は、この放棄について、
・放棄の意思表示が退職後になされたものであること
・使用者の指揮命令関係がすでに終了していること
・経費使用に関する事情を踏まえ、労働者自身が自発的に判断したと評価できること
などを考慮し、当該賃金債権(退職金)の放棄は、労働者の自由な意思に基づくものとして有効であると判断しました。

 この判決は、賃金債権であっても、放棄が直ちに無効となるわけではなく、放棄の時期や状況次第では有効となり得ることを示しています。特に、退職後という、使用者の影響力が相対的に弱まった段階での意思表示である点が、自由意思を肯定する重要な事情とされました。

 会社経営者としては、賃金債権放棄が有効と認められるためには、労働者が自らの判断で放棄を選択したと評価できる状況が必要であることを、この裁判例から理解しておく必要があります。

4. 賃金債権放棄が無効とされた裁判例

 これに対し、賃金債権の放棄について自由な意思が否定され、無効と判断された代表的な裁判例が、北海道国際航空事件判決(最高裁第一小法廷平成15年12月18日判決)です。

 本件は、会社が経営危機に直面する中で、経営状態を説明したうえ、課長職以上の役職者に対して賃金減額を通告した事案です。労働者は、遡及的な賃金減額は違法であるなどと抗議していましたが、実際には、減額後の賃金を受け取らざるを得ない状況に置かれていました。

 最高裁は、この事案について、
・減額後の賃金を受け取り続けていたことから、その時点以降の賃金減額については黙示の同意があったと評価できる
一方で、
すでに発生していた賃金債権についてまで放棄したといえるかについては、
 労働者が経営者の通告に事実上従わざるを得ない立場にあり、
 自由な意思に基づいて放棄したと認めるに足りる客観的・合理的理由が存在しない
として、過去分の賃金債権の放棄は無効であると判断しました。

 この判決は、賃金減額を受け入れたように見える場合であっても、在職中における賃金債権の放棄については、極めて慎重な判断がなされることを明確にしています。特に、経営危機という事情があったとしても、それだけで労働者の自由な意思が認められるわけではない点が重要です。

5. 裁判例からみる判断の分かれ目

 これまでの裁判例を比較すると、賃金債権の放棄が有効か無効かの判断は、放棄の形式ではなく、その実質によって分かれていることが分かります。最大の分岐点は、労働者が実質的に自由な選択をできる状況にあったかどうかです。

 まず重要なのは、放棄がなされた時期です。シンガー・ソーイング・メシーン・カムパニー事件のように、退職後で使用者の指揮命令関係が終了している場合には、自由な意思が肯定されやすくなります。これに対し、北海道国際航空事件のように、在職中で雇用継続への不安が強い状況では、自由意思は厳しく判断されます。

 次に、放棄に至る経緯も大きな判断要素です。労働者自身の発意や納得に基づく放棄なのか、それとも会社の一方的な通告や事実上の強制によるものなのかによって、評価は大きく異なります。「経営危機だから協力してほしい」といった説明があったとしても、拒否が困難な状況であれば、自由な意思は否定されやすくなります。

 さらに、放棄の対象がすでに発生した賃金債権かどうかも重要です。将来の賃金条件の変更と異なり、既発生の賃金債権については、労働者保護の必要性が特に高く、放棄の有効性は慎重に判断されます。

 このように、裁判所は、個別の事情を総合的に考慮し、**「労働者に実質的な選択の余地があったか」**という観点から、賃金債権放棄の有効性を判断しています。

6. 会社経営者が実務で注意すべきポイント

 これまでの裁判例を比較すると、賃金債権の放棄が有効か無効かの判断は、放棄の形式ではなく、その実質によって分かれていることが分かります。最大の分岐点は、労働者が実質的に自由な選択をできる状況にあったかどうかです。

 まず重要なのは、放棄がなされた時期です。シンガー・ソーイング・メシーン・カムパニー事件のように、退職後で使用者の指揮命令関係が終了している場合には、自由な意思が肯定されやすくなります。これに対し、北海道国際航空事件のように、在職中で雇用継続への不安が強い状況では、自由意思は厳しく判断されます。

 次に、放棄に至る経緯も大きな判断要素です。労働者自身の発意や納得に基づく放棄なのか、それとも会社の一方的な通告や事実上の強制によるものなのかによって、評価は大きく異なります。「経営危機だから協力してほしい」といった説明があったとしても、拒否が困難な状況であれば、自由な意思は否定されやすくなります。

 さらに、放棄の対象がすでに発生した賃金債権かどうかも重要です。将来の賃金条件の変更と異なり、既発生の賃金債権については、労働者保護の必要性が特に高く、放棄の有効性は慎重に判断されます。

 このように、裁判所は、個別の事情を総合的に考慮し、**「労働者に実質的な選択の余地があったか」**という観点から、賃金債権放棄の有効性を判断しています。

 

最終更新日2026/2/8

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