労働問題493 賃金債権放棄の有効性の判断基準を教えて下さい。

この記事の結論
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賃金債権の放棄が有効であるには「自由な意思に基づくことが明確」でなければならない

シンガーソーイングメシーン事件最高裁昭和48年1月19日第二小法廷判決は、賃金全額払の原則の趣旨に鑑み、賃金債権の放棄の意思表示の効力を肯定するには、それが労働者の自由な意思に基づくものであることが明確でなければならないとしました。

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「客観的に存在する合理的な理由」によって「自由な意思」を判断する

当該意思表示が「労働者の自由な意思に基づくものであると認めるに足る合理的な理由が客観的に存在していた」ような場合には、自由な意思に基づくことが明確であると考えられます。

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この基準は相殺の同意にも準用され、日新製鋼事件判決へと展開した

同判決の基準は、日新製鋼事件最高裁平成2年判決において賃金債権の相殺に対する同意の有効性判断にも援用されています(494番参照)。

01賃金債権の放棄と賃金全額払の原則

 賃金の全額払の原則(労基法24条1項本文)は、使用者が一方的に賃金を控除・減額することを禁止するだけでなく、労働者が賃金債権を放棄することについても、その有効性に制約を加えるものと解されています。

 なぜなら、労働者と使用者の間には力関係の差があり、使用者の意向に反して放棄を拒絶することが事実上困難な場合が多いからです。「労働者が同意した」という形式だけで放棄を有効とすれば、実質的に使用者が賃金を一方的に控除するのと変わらない結果になるため、全額払の原則の趣旨が没却されてしまいます。

02シンガーソーイングメシーン事件最高裁判決の判断基準

 シンガーソーイングメシーン事件最高裁昭和48年1月19日第二小法廷判決は、賃金である退職金債権を放棄する旨の意思表示の有効性について判断を示した重要判例です。

判断基準の2段階構造

原則(第1段階):
全額払の原則の趣旨に鑑み、放棄の意思表示の効力を肯定するには、それが労働者の自由な意思に基づくものであることが明確でなければならない。

判断方法(第2段階):
当該意思表示が「労働者の自由な意思に基づくものであると認めるに足る合理的な理由が客観的に存在していた」ような場合には、それが労働者の自由な意思に基づくものであることが明確であると考えるべき。

 すなわち、①形式的に放棄の意思表示があること(これだけでは不十分)→②その意思表示が「自由な意思に基づく」ものであることが明確であること→③「自由な意思に基づく」かどうかは、客観的に合理的な理由が存在するかどうかで判断する、という3段階の論理構造です。

03「自由な意思に基づく」かどうかの判断方法

 「労働者の自由な意思に基づくものであると認めるに足る合理的な理由が客観的に存在する」かどうかは、放棄に至った経緯・状況を総合して判断されます。

 一般的に、以下のような事情がある場合は「自由な意思に基づく」と認められやすくなります。①労働者が自ら進んで・積極的に放棄を申し出た、②放棄の内容・理由について十分な説明を受けたうえで検討する機会があった、③一定の反対給付(解決金の支払い等)を受けた、④放棄しないことによる不利益がなかった、などです。

 逆に以下の事情がある場合は認められにくくなります。①使用者から一方的に放棄書類への署名を求められた、②拒絶すると解雇・降格等の不利益を受けると思わせるような状況下での署名、③放棄の内容を十分に理解しないまま署名した、④署名するための検討時間がほとんどなかった、などです。

04日新製鋼事件判決への展開

 シンガーソーイングメシーン事件判決の基準は、その後の日新製鋼事件最高裁平成2年11月26日第二小法廷判決において、賃金債権の相殺に対する同意の有効性判断にも援用されています。

 日新製鋼事件判決は、労働者が自由な意思に基づき相殺に同意した場合において、当該同意が自由な意思に基づくと認めるに足る合理的な理由が客観的に存在するときは相殺は全額払の原則に違反しないとし、かつ「右同意が労働者の自由な意思に基づくものであるとの認定判断は、厳格かつ慎重に行わなければならない」と付言しています(494番参照)。

 「厳格かつ慎重に」という言葉が日新製鋼事件判決で明示された点は重要です。シンガーソーイングメシーン事件判決も同様の慎重な認定を要求するものと理解すべきです。

05実務上の留意点

 使用者として退職金等の賃金債権の放棄を求める場面では、後に放棄の有効性を争われることを念頭に置いた対応が必要です。

 最低限必要な対応として、①放棄の合意は書面(合意書)で明確にする、②放棄の内容・金額・理由を合意書に明記する、③社員が内容を確認・検討するための時間的余裕を与える(当日即日での署名要求は避ける)、④放棄に至る経緯と社員の反応を記録に残す、⑤可能であれば弁護士等の第三者が同席するなど、自由な意思によることを担保する環境を整える、ことが挙げられます。

 特に問題社員の退職時に「退職金を受け取らない代わりに懲戒解雇を普通解雇にする」などの合意をする場面では、社員が退職という追い込まれた状況にあることから、「自由な意思」の認定が厳しく問われます。弁護士に相談のうえ、合意書の設計と交渉プロセスを慎重に進めることをお勧めします。

経営上のポイント 退職金等の賃金債権の放棄合意は、書面化・十分な説明と検討時間の確保・経緯の記録を徹底してください。形式的な署名があっても「自由な意思」と認められないリスクがあります。問題社員との退職交渉では特に慎重な対応が求められますので、使用者側弁護士に相談のうえ進めることをお勧めします。アドバイスします。
SUPERVISOR 弁護士 藤田 進太郎

監修者

弁護士法人四谷麹町法律事務所 代表弁護士 藤田 進太郎

東京大学法学部卒業。2003年弁護士登録。日本弁護士連合会会員労働法制委員会委員・事務局次長・最高裁行政局との労働審判制度に関する協議会協議員、第一東京弁護士会労働法制委員会委員・研修部会副部会長、経営法曹会議会員・第112回経団連労働法フォーラム報告担当者、労働審判員連絡協議会特別会員、日本労働法学会会員、東京麹町ロータリークラブ会員・2023-24年度幹事。
講演・著作 / 「会社経営者のための問題社員対応講座」(YouTube)

日本全国各地の会社経営者の皆様へ

弁護士法人四谷麹町法律事務所代表弁護士の藤田進太郎です。私は、労働問題のストレスから会社経営者の皆様を解放したいという強い思いを持っており、日本全国各地の会社経営者のために、問題社員、労働審判、残業代トラブルなどの労働問題の予防解決に当たっています。問題社員、労働審判、残業代トラブルでお悩みでしたら、弁護士法人四谷麹町法律事務所にご相談ください。事務所会議室での経営労働相談のほか、ZoomやTeamsでのオンライン経営労働相談を実施しています。

Q&Aよくある質問

Q1. 問題社員に退職金を支払わないという合意を退職時に取り交わしました。後から「あの合意は無効だ」と言われたらどう対応すべきですか。

A. 退職金が「賃金」に当たる場合、その放棄合意の有効性は「自由な意思に基づくことが明確」かどうかで判断されます。対応として、①合意書の内容(放棄の具体的な内容・金額)、②合意に至った経緯(説明した内容・検討時間・本人の反応の記録)、③本人が積極的に同意した事実、などを証拠として整理してください。合意書があるだけでは不十分な場合があり、経緯の記録が重要な証拠になります。弁護士に相談のうえ対応することをお勧めします。

Q2. 退職金を「賃金」とするかどうかは自由に決められますか。賃金でない退職金であれば放棄合意は自由にできますか。

A. 退職金が「賃金」に該当するかどうかは、就業規則・雇用契約の定めや実際の運用によって判断されます。支給条件や計算方法が明確に定められ、労働の対価として支給されるものは「賃金」と認定されます。「賃金」でない場合は、労基法24条の全額払の原則が直接には適用されないため、放棄合意の有効性判断がより柔軟になりますが、公序良俗違反等の別の問題が生じることもあります。判断が難しい場合は弁護士に相談してください。

Q3. 社員が自ら「未払残業代を請求しない」という誓約書を書いてきました。これは有効ですか。

A. 未払残業代の請求権は賃金債権ですので、その放棄にはシンガーソーイングメシーン事件判決の基準が適用されます。社員が自ら進んで書いてきたとしても、①その経緯(使用者から何らかのプレッシャーがかかっていなかったか)、②内容を理解していたか、③利益を得たか等が考慮されます。自発的に書いてきた場合は、客観的な合理的理由の存在を認めやすくなりますが、絶対的な保証はありません。このような誓約書を受け取った場合は、弁護士に確認することをお勧めします。

Q4. シンガーソーイングメシーン事件判決と日新製鋼事件判決はどのような関係にありますか。

A. シンガーソーイングメシーン事件判決(昭和48年)は「賃金債権の放棄」について「自由な意思に基づくことが明確」という判断基準を示しました。日新製鋼事件判決(平成2年)はこの判決を参照しつつ、「賃金債権の相殺に対する同意」についても同様の基準を適用するとともに、「自由な意思に基づくとの認定判断は厳格かつ慎重に行わなければならない」と明示しました。両判決は一連の判例法理として理解するものです(494番参照)。

最終更新日:2026年2月25日

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