能力不足社員が起こしたミスや事故の損害については、横領等の故意による不正行為を除き、満額の請求は法的に困難です。報償責任の原則により、うっかりミスでは半額程度、場合によってはゼロが上限となります。加えて、損害賠償の予定は労基法16条で禁止され、給料天引きも労基法24条で原則禁止されています。損害賠償請求に過度な期待をせず、保険によるリスクヘッジと適材適所による未然防止に軸足を置くことが、実務上の合理的対応となります。
損害賠償請求の原則的困難──報償責任の原則
能力不足社員のミスや事故で会社が損害を被った場合、「本人に満額を請求したい」というご相談を経営者から多く受けます。感情としては当然のご要望ですが、実際には満額請求が可能な場面は極めて限定的というのが法実務の現状です。
法的な請求権の根拠自体は、民法上の不法行為に基づく損害賠償請求(民法709条)や、労働契約の債務不履行に基づく損害賠償請求(民法415条)として構成することが可能です。しかし、これらの請求権が認められるとしても、請求できる範囲は裁判所の判断により大幅に制限されるのが通常です。
報償責任の原則という考え方
裁判実務において広く受け入れられているのが、「報償責任の原則」という考え方です。会社は社員を雇用することにより事業活動から利益を得ているのだから、社員の活動によって生じた損害も会社がある程度負担するのが公平である、という価値判断に基づいています。
この考え方の下、裁判所は社員のミスによる損害の全額を社員に負担させることに慎重であり、損害の一部を会社側が引き受けるべきだとする結論を採ることが多くなっています。信義則や公平性、損害の性質、予見可能性、指導監督体制等、様々な要素を考慮した上で、社員の負担割合が算定されます。
会社経営者が持つべき認識
以上を踏まえると、会社経営者としては、損害賠償請求を当てにした経営判断は避けるべきであり、これから各章で解説する具体的場面と限界を理解した上で、保険や適材適所といった別の手段によるリスク管理を設計することが必要となります。
満額請求が可能な典型類型──故意・重過失
損害賠償の満額請求が実務上可能となるのは、社員に故意または重過失が認められる場合に限られます。代表的な類型としては、以下のようなものが挙げられます。
横領・着服等の故意による不正行為
最もわかりやすい類型が、会社のお金を横領したり着服したりといった故意の不正行為です。会社の売上金を私的に費消した、顧客から預かった金銭を勝手に引き出した、経費を水増し請求した──こうした事案については、損害額の全額を本人に請求することが可能です。
ただし、現実的には、横領等を行う社員にはそもそも損害額を賠償するだけの資力がない場合が多く、権利があっても実際の回収ができないというケースが少なくないのが実情です。破産手続開始の通知が届き、損害賠償債権が免責されてしまう事案も珍しくありません。
故意的な業務妨害・情報漏えい等
営業秘密を故意に競合他社に漏えいした、顧客情報を持ち出して競業行為を行った、意図的に業務を妨害したといった故意の加害行為も、満額請求が可能となる類型です。故意性の立証は必要ですが、客観的事実が揃っていれば、裁判所も全額負担を認める判断を採りやすくなります。
重過失が認められる場合
故意に至らないまでも、著しく注意を欠いた行為による損害については、重過失として満額に近い請求が認められることがあります。もっとも、重過失が認められる場合であっても、実務上は請求額の5割〜7割程度に減額されることが多く、完全な満額認容は限定的です。
この点を踏まえ、就業規則等であらかじめ「故意または重過失の場合のみ損害賠償を求める」という定めを置いている会社も少なくありません。範囲を明確化しておくことで、無用な紛争を回避できるメリットがあります。
うっかりミスの場合に請求可能な金額
能力不足社員のミスや事故の大半は、単なる過失による「うっかりミス」に分類されます。運送業での接触事故、物品の破損、書類の誤送信、顧客との応対ミスといった事案がこれに当たります。
うっかりミスによる損害については、本人に請求できる額は実損害の2〜3割程度、場合によってはゼロと判断されることが多いのが現状です。過失の程度が軽ければ軽いほど、社員の負担割合は低く、会社側の負担割合が大きくなります。
裁判所が考慮する要素
社員の負担割合を算定するに当たり、裁判所は以下のような要素を総合的に考慮します。
第一に、事業の性質と危険の程度です。例えば、自動車運送業のように事故が類型的に発生しやすい事業においては、そもそも事故リスクは事業主が負担すべき性格のものと評価されやすく、社員の負担割合は低くなる傾向にあります。
第二に、過失の内容と程度です。通常の業務遂行の中で誰でも起こし得るミスであれば負担割合は低くなり、明らかな注意義務違反があれば高くなります。
第三に、会社の指導監督体制・損害防止体制です。適切な教育訓練、安全対策、ダブルチェック体制が整っていたかが問われます。体制不備があった場合、会社側の責任が重く評価されます。
第四に、労働者の賃金水準・家族状況等です。労働者の負担能力を超える請求は、信義則上制限される方向に働きます。
損害賠償の予定の禁止(労基法16条)
実損害額の算定や負担割合の争いが発生すること自体を避けるため、「あらかじめ損害賠償額を定めておきたい」と考える経営者の方もいらっしゃいます。企業間取引においては損害賠償額の予定は有効ですが、労働契約においては労働基準法16条により明確に禁止されています。
労基法16条は、「使用者は、労働契約の不履行について違約金を定め、又は損害賠償額を予定する契約をしてはならない」と規定しています。これに違反する合意は、本人の同意があっても無効となります。
具体的に禁止される合意の例
以下のような合意は、労基法16条違反として無効となります。
・「事故を起こした場合は〇円を会社に支払う」という定め
・「備品を破損した場合は〇円を弁償する」という誓約書
・「顧客情報を流出させた場合は〇〇万円の違約金を支払う」という合意
・「退職時に教育費用〇〇万円を返還する」という誓約(例外的に有効な場合もありますが限定的)
これらは、本人の署名があっても、就業規則に定めがあっても、労基法16条違反として効力を持ちません。むしろ、こうした定めを設けていることが労働基準監督署の調査対象となったり、「法令違反を課す会社」として評判を落とす原因になったりするリスクもあります。
「損害賠償の予定」と「実損害の請求」は別
禁止されているのはあらかじめ金額を定めることであり、現実に生じた実損害を事後的に請求すること自体は禁止されていません。事故発生後に、実損害額を立証した上で民法上の損害賠償請求を行うことは可能です(ただし前述の通り、満額認容は限定的です)。
給料天引きの原則禁止(労基法24条)
本人との間で損害賠償額について合意ができた場合、回収手段として給料からの天引きを検討する経営者の方もいらっしゃいます。しかし、給料天引きにも労働基準法上の厳しい制約があります。
労働基準法24条は、「賃金は、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない」という賃金全額払いの原則を定めています。この原則の例外として認められるのは、①法令に別段の定めがある場合(所得税、社会保険料等の源泉控除)、②労使協定がある場合のみです。
合意があっても違法となる場合
「本人の同意があれば天引きできるだろう」と誤解されがちですが、本人同意があっても労使協定がなければ違法となるのが原則です。本人が合意書に署名していたとしても、後日「あれは本意ではなかった」「自由な意思に基づく合意ではなかった」と主張され、天引きした全額の返還を請求されるリスクがあります。
労働基準監督署の調査対象となった場合には、是正勧告を受け、過去に天引きした全額を本人に返還するよう命じられることもあります。裁判においても、天引き相当額を賃金未払いとして請求される事案が見られます。
実務的な回収方法
損害賠償の合意が成立した場合の回収方法としては、以下のいずれかが実務的に採用されます。
第一に、本人から現金で受領する方法です。領収書を発行しておけば記録が残ります。第二に、本人の銀行口座から会社口座への振込です。分割払いの合意書を作成しておけば、より安全です。第三に、給料とは別ルートでの精算です。給料は全額支払い、別途本人から支払いを受けるという処理であれば、労基法24条の問題は生じません。
身元保証人への請求可能性と限界
採用時に身元保証書を取得している会社も多く、本人からの回収が困難な場合、身元保証人への請求を検討するケースがあります。しかし、身元保証人への請求にも法的な限界があります。
極度額の定めが必須
現行民法の下では、身元保証契約には極度額(保証人が負担する金額の上限)の定めが必須とされ、極度額を定めない身元保証契約は無効となります。2020年4月以降に作成した身元保証書で極度額の定めがないものは、そもそも効力がありません。自社で使用している身元保証書のひな形に極度額の定めがあるか、今一度ご確認されることをお勧めします。
本人の負担範囲を超えない
身元保証はあくまで保証ですので、本来本人が負担すべき額を超えて保証人に請求することはできません。本人に対する請求額が報償責任の原則により減額されれば、身元保証人への請求額も連動して減額されます。
身元保証法による考慮要素
身元保証に関する法律は、保証人の責任を限定的に解釈する方向で運用されており、様々な考慮要素を踏まえて、保証人の責任額がさらに減額される傾向にあります。具体的には、会社側の指導監督の適切性、身元保証人に対する情報提供の有無、保証人の資力・家族状況等が考慮されます。
結論として、身元保証人からの満額回収を見込むことは実務上困難であり、身元保証書を取っているから大丈夫という感覚は現実とずれています。身元保証は一定の抑止効果はあるものの、実際の損失回収手段としては限界があることを前提に運用する必要があります。
実務的対応──保険によるリスクヘッジと適材適所
以上のとおり、損害賠償請求は会社にとって当てにならない手段であることが明らかになります。では、能力不足社員のミスや事故によるリスクにどう対応すべきか──損害賠償請求を当てにせず、別の手段でリスク管理するというのが結論となります。
保険によるリスクヘッジ
最も実効性のあるリスク管理手段が、適切な保険への加入です。運送業であれば自動車任意保険(対人・対物・車両)を十分な補償額で加入すること、業務全般に関するものとしては賠償責任保険や使用者賠償責任保険を検討することが、具体的な対策となります。
「保険料が上がるのが困る」という声をうかがうことも多いのですが、損害賠償請求がほとんど機能しない以上、保険料は事業運営上の必要経費と位置づけるのが合理的です。一度の大きな事故で保険料の数十倍の損失を被るリスクを考えれば、十分な補償額の保険加入は経営判断として合理的です。
適材適所による未然防止
より根本的な対策は、能力不足社員を損害リスクの高い業務に配置しないことです。運転能力に不安がある社員を運転業務に就けない、計数処理能力が不足する社員を金銭取扱業務に就けない、といった配置の設計こそが、最も効果的なリスク管理となります。
能力不足が判明した場合には、教育指導・配置転換・退職勧奨といった選択肢を早期に検討し、「本人の能力に依存する業務設計」自体を見直すことが重要です。能力不足社員を抱え続けながら損害賠償請求で穴埋めしようとするのは、経営判断として合理性を欠きます。
業務プロセスの設計
加えて、個人の能力に依存しすぎない業務プロセスの設計も重要です。ダブルチェック体制、チェックリスト運用、定期的な教育訓練、ヒヤリハット情報の共有といった仕組みにより、個人のミスが重大事故に直結しない構造を作ることで、損害発生リスク自体を低減できます。
当事務所のサポート体制
弁護士法人四谷麹町法律事務所は、会社側(使用者側)の労働問題に特化した法律事務所です。能力不足社員の損害賠償関連論点については、実際の損害回収案件の対応に加え、就業規則の整備・身元保証書の見直し・予防的な業務設計の助言まで、幅広くサポートいたします。
具体的には、第一に、個別の損害賠償請求案件の代理です。実損害の立証、本人との示談交渉、訴訟対応までを一貫して担当します。第二に、就業規則・身元保証書の見直しです。損害賠償の予定の誤った規定が含まれていないか、極度額の定めが適切か等、現行法規制への適合性を点検し、改訂案を起案します。第三に、横領等の不正行為への対応です。事実関係の調査、懲戒処分、刑事告訴の判断、民事請求までを一貫して対応します。第四に、予防的な助言です。能力不足社員を抱えた状態の継続が損害リスクを高めているケースにおいて、配置転換・退職勧奨・解雇といった雇用管理上の選択肢を含めた総合的な助言を行います。
柱ページのご案内 能力不足社員への対応全般(採用段階から解雇まで)については、柱ページ「能力不足の社員は解雇できるか」にて体系的に解説しています。
よくあるご質問
Q.社員のミスで会社に損害が出た場合、全額請求できますか。
A.横領等の故意による不正行為を除き、全額請求が認められる場面は限定的です。報償責任の原則により、通常のうっかりミスでは実損害の2〜3割程度、場合によってはゼロが上限となります。重過失が認められる場合でも、5〜7割程度への減額が一般的です。
Q.入社時に「事故を起こしたら〇円を支払う」という合意はできますか。
A.できません。労働基準法16条により、損害賠償の予定は明確に禁止されています。本人の署名があっても、就業規則に定めがあっても、この種の合意は無効となります。むしろ、法令違反の定めを設けていることが労基署調査等のリスクを招くため、誓約書等の見直しが必要です。
Q.社員が起こした損害を給料から天引きすることはできますか。
A.原則としてできません。労働基準法24条の全額払い原則により、法令の定めまたは労使協定がなければ給料から控除することは違法です。本人の同意があっても、労使協定がなければ違法と評価されます。合意が成立した場合は、給料とは別ルート(現金払いや口座振込等)で回収する必要があります。
Q.身元保証人に損害賠償を請求できますか。
A.可能ですが、大幅に制限されます。極度額の定めがない身元保証契約は無効(民法改正後)であり、定めがあっても、本人の負担範囲を超えては請求できません。さらに身元保証法の考慮要素により金額が減額されるため、満額回収を見込むことは実務上困難です。
Q.横領事件の場合はどうですか。
A.故意による不正行為ですので、損害額の全額請求が可能です。ただし、実務的には本人に賠償能力がないケースが多く、権利として認められても現実の回収が困難な事案が少なくありません。早期の財産保全、懲戒処分、刑事告訴との連動対応が重要となります。
Q.保険に加入しておけば会社の負担は減りますか。
A.はい、最も実効性のあるリスクヘッジ手段は保険加入です。損害賠償請求が実務上機能しにくい以上、保険料は事業運営上の必要経費と位置づけるのが合理的です。運送業であれば自動車任意保険を十分な補償額で、業務全般については賠償責任保険や使用者賠償責任保険を検討してください。
Q.損害を賠償できない能力不足社員への対応としては、何が現実的ですか。
A.損害賠償請求を当てにするのではなく、雇用管理の見直しで対応することが合理的です。損害リスクの高い業務からの配置転換、改善が見込めない場合の退職勧奨、試用期間内の本採用拒否、解雇といった選択肢を、能力不足の程度と客観的事実を踏まえて段階的に検討することが必要です。
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監修者
弁護士法人四谷麹町法律事務所 代表弁護士 藤田 進太郎
東京大学法学部卒業。2003年弁護士登録。日本弁護士連合会会員労働法制委員会委員・事務局次長・最高裁行政局との労働審判制度に関する協議会協議員、第一東京弁護士会労働法制委員会委員・研修部会副部会長、経営法曹会議会員・第112回経団連労働法フォーラム報告担当者、労働審判員連絡協議会特別会員、日本労働法学会会員、東京麹町ロータリークラブ会員・2023-24年度幹事。
講演・著作 / 「会社経営者のための問題社員対応講座」(YouTube)
日本全国各地の会社経営者の皆様へ
弁護士法人四谷麹町法律事務所代表弁護士の藤田進太郎です。私は、労働問題のストレスから会社経営者の皆様を解放したいという強い思いを持っており、日本全国各地の会社経営者のために、問題社員、労働審判、残業代トラブルなどの労働問題の予防解決に当たっています。問題社員、労働審判、残業代トラブルでお悩みでしたら、弁護士法人四谷麹町法律事務所にご相談ください。事務所会議室での経営労働相談のほか、ZoomやTeamsでのオンライン経営労働相談を実施しています。
社員のミスによる損害対応は、
予防と仕組みづくりが要です。
個別の損害賠償請求の代理、就業規則・身元保証書の見直し、不正行為への対応、予防的な雇用管理上の助言まで、会社側専門の弁護士が一貫してサポートいたします。ご判断に迷われる段階からお受けいたします。
最終更新日 2026/04/19