1. 賃金全額払原則と相殺の基本的な考え方

 労働基準法は、賃金について「全額を、直接、労働者に支払わなければならない」という、いわゆる賃金全額払原則を定めています。この原則は、賃金が労働者の生活の基盤であることから、使用者が一方的に控除や差引きを行うことを厳しく制限する趣旨のものです。

 そのため、会社が労働者に対して債権を有している場合であっても、これを当然に賃金と相殺することは原則として許されません。例えば、貸付金の返済、損害賠償請求、過払賃金の回収などがあったとしても、使用者の判断のみで賃金から差し引くことは、賃金全額払原則に反し、違法となる可能性があります。

 この点については、相殺が民法上認められている一般的な制度であることを理由に、労働関係でも当然に許されると誤解されがちですが、労働法の世界では特別の規律が及ぶ点に注意が必要です。賃金については、労働者保護の観点から、民法の相殺ルールよりも厳格な扱いがされています。

 もっとも、賃金全額払原則にも例外が存在します。その代表例が、労働者の自由な意思に基づく相殺の合意がある場合です。この場合には、賃金全額払原則に反しないとして、例外的に相殺が有効と判断される余地があります。

 会社経営者としては、賃金と相殺できるか否かは「債権があるかどうか」ではなく、賃金全額払原則との関係でどのように評価されるかという視点から検討すべきであり、安易な相殺処理は重大な法的リスクを伴うことを理解しておく必要があります。

2. 労働者の同意がある場合の相殺の可否

 賃金全額払原則があるとはいえ、労働者の自由な意思に基づいて相殺することに合意がなされた場合には、その相殺は例外的に有効と考えられています。重要なのは、単に「同意書があるかどうか」ではなく、その同意が真に自由な意思に基づくものかという点です。

 会社経営者の立場からすると、労働者が署名押印していれば足りると考えがちですが、裁判実務では形式的な同意だけでは不十分とされています。使用者の優越的地位のもとで、事実上拒否できない状況でなされた同意や、十分な説明がないまま求められた同意については、自由な意思に基づくものとは認められない可能性があります。

 また、就業規則や雇用契約書に、あらかじめ「会社の債権は賃金と相殺できる」と定めておくことによって、包括的に同意があったと評価されるかについても、慎重な判断が必要です。抽象的・包括的な同意だけで、直ちに相殺が有効になるわけではありません。

 したがって、労働者の同意がある場合であっても、賃金との相殺が常に認められるわけではなく、その同意の取得方法や内容、当時の状況が厳しく検討されることになります。

 会社経営者としては、「同意を取れば大丈夫」と安易に判断するのではなく、その同意が後に争われた場合でも、自由な意思に基づくものであったと説明できるかという観点から対応を検討することが重要です。

3. 「自由な意思」に基づく同意か否かの判断要素

 労働者の同意があれば賃金との相殺が直ちに有効となるわけではなく、その同意が労働者の自由な意思に基づくものかどうかが厳格に判断されます。裁判実務では、次のような要素を総合考慮して判断されています。

 第一に、労働者が同意に至った経緯や同意の態様です。会社から一方的に同意を求められたのか、労働者側の要請や発意があったのか、十分な説明がなされ、拒否する余地があったのかといった点が重視されます。使用者の優越的地位のもとで、事実上同意を強いられたと評価される場合には、自由な意思は否定されやすくなります。

 第二に、相殺される債務および反対債務の性質です。相殺の対象となる債務が、労働者にとって一定の利益を伴うものであるかどうかが重要となります。例えば、低利の社内融資や福利厚生的性格を有する貸付金などは、労働者にとって合理的な利益があるものとして評価されやすくなります。

 第三に、同意がなされた時期です。賃金支払直前や退職時など、労働者が不利な立場に置かれやすい時期に同意が取得された場合には、その任意性が厳しく問われます。一方、事前に十分な時間をかけて合意が形成されている場合には、自由な意思が認められやすくなります。

 第四に、相殺額の多寡です。相殺額が過大であり、労働者の生活に重大な影響を及ぼすような場合には、たとえ同意があっても、その合理性が否定される可能性があります。

 このように、自由な意思の有無は、単一の要素で判断されるものではなく、個別具体的事情を踏まえた総合判断となります。会社経営者としては、後に紛争となった場合でも、これらの要素を踏まえて自由な意思があったと説明できる体制を整えておくことが重要です。

4. 日新製鋼事件最高裁判決の概要

 本件で重要な裁判例が、日新製鋼事件最高裁第二小法廷平成2年11月26日判決です。この事件は、労働者に対する債権を賃金等と相殺することが、賃金全額払原則に反しないかが争われた事案です。

 事案の概要は、労働者が銀行等から住宅資金の融資を受けるにあたり、退職時には退職金などによって融資残債務を一括返済することとし、その返済手続を会社に委託する旨の約定をしていたというものです。会社は、当該労働者の同意のもと、委任内容に基づき、退職金等から相殺処理を行いました。

 これに対し、労働者側は、賃金全額払原則に反すると主張しましたが、最高裁は、相殺を有効と判断しました。その理由として、
・労働者が返済手続を自発的に会社へ依頼していたこと
・当該融資が低利かつ長期分割返済という労働者に有利な条件で行われていたこと
・利子の一部を会社が負担するなど、福利厚生的な配慮がなされていたこと
などを挙げ、相殺同意については、労働者の自由な意思に基づくものと認めるに足りる合理的理由が客観的に存在すると判断しました。

 この判決は、賃金との相殺が例外的に許される場面について、自由意思の判断枠組みを具体的に示した重要な裁判例として、現在も実務上大きな意味を持っています。

5. 裁判例からみる相殺有効性の判断ポイント

 これまでの裁判例を踏まえると、賃金と相殺することが許されるか否かは、相殺という行為自体の是非ではなく、その前提となる合意の実質が問われていることが分かります。特に重視されているのは、相殺が使用者の便宜のために行われたものか、それとも労働者の利益や要請に基づくものかという点です。

 裁判所は、労働者が相殺に同意した経緯について、会社主導で一方的に決められたものではなく、労働者自身が必要性を理解し、自ら選択したといえるかを厳しく確認します。労働者にとって明確なメリットがあり、そのために会社に手続を委ねたという構造がある場合には、相殺の有効性が肯定されやすくなります。

 また、相殺の対象となる債権が、福利厚生的な性質を有するかどうかも重要です。低利の社内融資や、会社の関与により有利な条件で利用できた制度など、労働者側の利益が明確な場合には、自由な意思が認められやすい傾向があります。

 一方で、損害賠償請求や過払賃金の回収など、会社側の都合が前面に出る債権については、たとえ同意書が存在しても、自由な意思が否定され、相殺が無効と判断されるリスクが高くなります。

 会社経営者としては、賃金との相殺を検討する場合、その合意が労働者の利益に資するものか、労働者の選択に基づくものかという点を、常に立ち止まって確認することが重要です。

6. 会社経営者が実務で注意すべきポイント

 賃金と相殺する場面は、実務上決して多くはありませんが、対応を誤ると賃金全額払原則違反として重大な法的リスクを招きます。会社経営者としては、次の点を特に意識する必要があります。

 まず、原則として賃金との相殺はできないという前提を明確に持つことが重要です。会社に債権があるという理由だけで、賃金から一方的に差し引くことは許されません。相殺を検討する場合は、常に「例外的に許される場面かどうか」という視点から判断する必要があります。

 次に、相殺を行う場合には、労働者の自由な意思に基づく同意があるかを慎重に確認することが不可欠です。形式的な同意書の取得にとどまらず、同意に至った経緯、説明内容、同意時期、相殺額の妥当性などを含め、後に争われた場合でも自由意思を立証できる状態にしておく必要があります。

 また、相殺の対象となる債権の性質にも注意が必要です。福利厚生的な貸付など、労働者にとって明確な利益がある場合と、損害賠償や過払賃金回収といった会社側の都合が強い場合とでは、裁判所の評価は大きく異なります。

 さらに、就業規則や雇用契約書に包括的な相殺条項を設けている場合でも、それだけで相殺が有効になるわけではないことを理解しておくべきです。実際の運用段階で、個別具体的な同意と合理性が求められます。

 賃金との相殺は、処理としては簡便であっても、法的には極めて繊細な問題です。会社経営者としては、安易に相殺処理を行うのではなく、事前に専門的な検討を行い、慎重に対応することが、紛争予防の観点からも重要といえるでしょう。

 

 

最終更新日2026/2/8


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