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既発生の賃金債権の放棄は「賃金全額払の原則」(労基法24条1項)に関わるため、自由な意思に基づいてされたものであることが明確でなければ効力が肯定されない(シンガーソーイングメシーン事件・最高裁昭和48年1月19日) 将来の賃金減額への同意よりも、既発生の賃金債権の放棄には一段高い要件が課されます |
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最低限の要件①:同意書(放棄書)の書面による取得。口頭だけでは効力が否定されるリスクが高い 書面がなければ「自由な意思に基づく明確な放棄」とは認められません |
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書面に加えて要件②:当該同意(放棄)が社員の自由な意思に基づくものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在すること。具体的な不利益説明・書面交付・口頭説明が必要 ②の確保は難しく、具体的な設計は使用者側弁護士に相談することをお勧めします |
目次
01既発生の賃金債権の放棄と「全額払の原則」
本記事で問題となるのは、既に発生した賃金請求権(例:未払い残業代・確定した給与)を、社員に放棄させる場面です。これは371番・376番で解説した「既発生の賃金請求権は事後の協約・就業規則では変更できない」という問題の続きであり、既発生の権利を有効に処理するための唯一の手段が個別合意(放棄の意思表示)である場合の要件を扱います。
既発生の賃金債権を社員に放棄させる行為は、労働基準法24条1項が定める「賃金全額払の原則」に関わります。全額払の原則は、賃金を全額・直接・労働者に支払うことを義務付けるものであり、この趣旨に照らせば、既発生の賃金債権の放棄の意思表示の効力を肯定するには、それが社員の自由な意思に基づくものであることが明確でなければなりません。
02シンガーソーイングメシーン事件。最高裁の判示
シンガーソーイングメシーン事件(最高裁昭和48年1月19日第二小法廷判決)の判示
判示内容:労基法24条1項(全額払の原則)の趣旨に照らせば、既発生の賃金債権を放棄する意思表示の効力を肯定するには、それが社員の自由な意思に基づいてされたものであることが明確でなければならない
意義:既発生の賃金債権の放棄については、通常の同意よりも一段高い「自由意思の明確性」という要件が課されることを明確にした。形式的な同意書の存在だけでは足りず、実質的な自由意思性の確保が必要
03要件①:同意書(放棄書)の取得
既発生の賃金債権の放棄の意思表示が有効と認められるためには、最低限として、書面による同意書(放棄書)の取得が必要です(378番の書面要件をさらに強化したものとして位置づけられます)。
口頭だけでの放棄の意思表示は、「自由な意思に基づくものであることが明確」という要件を満たすことが事実上困難です。書面がなければ、放棄の意思表示の存在自体を立証することもできず、後に社員が「そんなことを言っていない」と主張した場合に対抗できません。
同意書(放棄書)には、放棄する賃金債権の内容(金額・発生原因・対象期間等)を具体的に特定して記載する必要があります。「一切の賃金請求権を放棄する」という曖昧な記載では、放棄の対象が明確でないとして効力が否定される可能性があります。
04要件②:自由な意思に基づくと認めるに足りる合理的な理由の客観的存在
書面による同意書(放棄書)の取得だけでは十分ではありません。当該放棄が、社員の自由な意思に基づくものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在したといえる状況を作り出す必要があります。
「自由な意思に基づく」と評価されるために必要な要素
・放棄する賃金債権の内容(金額・発生原因・対象期間)を具体的に説明していること
・放棄によって社員が被る具体的な不利益(いくら失うか)を説明する書面を配布していること
・口頭でも丁寧な説明を行っていること
・放棄を断っても不利益は生じない旨を明示していること
・十分な検討時間を与えていること
・外部からの強迫・強要・脅迫に類する行為がないこと
・放棄の代償として何らかの利益(和解金・退職金の上乗せ等)がある場合にはその内容を明確にしていること
これらの要素を客観的に確認できる状態にしておくことが要件②の核心です。単に「説明した」という口頭の主張では足りません。説明した内容・方法・時期・社員の反応等を記録として残しておくことが重要です。
05②の実践的な確保方法
要件②(自由な意思に基づく合理的理由の客観的存在)は、①に比べて実践的な確保が難しい要件です。会社経営者が自社で対応しようとすると、不十分な対応となるリスクがあります。
Step 1:放棄の対象となる賃金債権の内容・金額を特定した書面を作成する
Step 2:放棄による具体的な不利益(失う金額)を明記した説明書面を作成・配布する
Step 3:口頭でも内容・不利益・任意性(断っても不利益はない旨)を丁寧に説明する
Step 4:検討のための十分な時間を設定する(その場で署名させない)
Step 5:上記説明の内容・日時・方法を記録として残す(メール・議事録等)
Step 6:社員が署名した同意書(放棄書)を取得する
要件②の確保は、単なる書式の問題ではなく、実際のプロセス設計の問題です。既発生の賃金債権の放棄を求める場面は、金額が大きく紛争に発展しやすい状況であることが多いため、具体的な手順の設計については使用者側弁護士に相談することを強くお勧めします。
06まとめ
既発生の賃金債権の減額に対する同意(放棄)の意思表示の効力を肯定するためには、それが社員の自由な意思に基づくものであることが明確でなければなりません(シンガーソーイングメシーン事件・最高裁昭和48年1月19日)。最低限として①同意書(放棄書)の書面による取得が必要であり、さらに②当該放棄が社員の自由な意思に基づくものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在すること。具体的な不利益説明・書面交付・口頭説明・十分な検討時間の確保。が必要です。①は会社単独での対応も可能ですが、②は設計が難しく、具体的な手順については使用者側弁護士にご相談ください。アドバイスします。
監修者
弁護士法人四谷麹町法律事務所 代表弁護士 藤田 進太郎
東京大学法学部卒業。2003年弁護士登録。日本弁護士連合会会員労働法制委員会委員・事務局次長・最高裁行政局との労働審判制度に関する協議会協議員、第一東京弁護士会労働法制委員会委員・研修部会副部会長、経営法曹会議会員・第112回経団連労働法フォーラム報告担当者、労働審判員連絡協議会特別会員、日本労働法学会会員、東京麹町ロータリークラブ会員・2023-24年度幹事。
講演・著作 / 「会社経営者のための問題社員対応講座」(YouTube)
日本全国各地の会社経営者の皆様へ
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Q&Aよくある質問
Q1. 「既発生の賃金債権の放棄」と「将来の賃金減額への同意」は、要件が異なりますか。
A. 異なります。将来の賃金減額への同意(378番)は、労契法12条の制約がなければ書面による同意で足りる場合があります。これに対し、既発生の賃金債権の放棄は、労基法24条1項(全額払の原則)の趣旨から自由意思の明確性という加重要件が課され、①書面(放棄書)の取得に加えて②自由な意思に基づく合理的理由の客観的存在が必要です。
Q2. 同意書(放棄書)に「○万円の賃金請求権を放棄する」と書けば②の要件も満たしますか。
A. 不十分です。同意書に記載があることは①の要件を満たすための要素ですが、②の要件(自由な意思に基づく合理的理由の客観的存在)は、記載内容だけでなく、説明の過程・検討時間の付与・強要の不存在等のプロセス全体を通じて確認されます。具体的な不利益説明書の配布・口頭説明の実施・検討時間の確保とその記録が必要です。
Q3. 未払い残業代の問題を解決するために、退職時に「一切の請求をしない」旨の書面に署名させることはできますか。
A. 形式的には可能ですが、内容が曖昧すぎる・説明が不十分・退職という状況での強迫に類する事情があると評価された場合、後に無効と判断されるリスクがあります。「一切の請求をしない」という包括的な文言では放棄の対象が特定されず、有効性が否定される可能性があります。具体的な金額・発生原因を特定した書面による合意が必要です。具体的な設計については使用者側弁護士に相談することをお勧めします。
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最終更新日:2026年5月31日