この記事の要点

「懲戒解雇すると脅されてパワハラを受けた状態で退職届に署名させられた」として、合意退職の錯誤無効・強迫取消が主張される紛争類型がある

退職合意書があっても合意退職の効力を争われるリスがあります

問題の核心は「その退職の意思表示が自由意思に基づくものだったか」。強迫・錯誤が認められれば取消・無効となり、地位確認請求が認容される可能性がある

退職合意に至る経緯・方法・状況が重要な事実関係となります

「懲戒解雇できる事由がないのに懲戒解雇すると告げた」場合は強迫に当たる可能性が高い。正当な理由なく過度な圧力をかけた退職勧奨は違法評価のリスクがある

退職勧奨の方法は適正に行う必要があります

01問題の所在。合意退職なのに地位確認請求がなされる理由

 パワハラ・セクハラ紛争の類型③は、いったん合意退職が成立したにもかかわらず、後になってその合意の効力を争う地位確認請求です(397番参照)。「退職合意書に署名した」という事実があっても、その意思表示の効力が争われる場面があります。

 なぜ合意退職後に地位確認請求がなされるのか。それは、民法上の意思表示の瑕疵(錯誤・強迫・詐欺等)を理由として、退職の意思表示の効力を否定しようとするからです。具体的には「懲戒解雇できるような事案でないにもかかわらず、懲戒解雇すると脅されるなどのパワハラにより退職届を提出させられた」として、合意退職の効力が争われます。

02強迫による退職意思表示の取消(民法96条)

 退職の意思表示が「強迫」によるものであった場合、民法96条に基づき意思表示を取り消すことができます。「強迫」とは、危害を告げて恐怖心を与え、意思決定の自由を妨げることをいいます。

 「懲戒解雇すると言われたので怖くて退職届に署名した」「退職しなければひどい目に遭うと脅された」という主張が、強迫取消の典型例です。強迫取消が認められれば、退職の意思表示は遡って無効となり、地位確認請求が認められる可能性があります。

 問題の核心は「その退職の意思表示が自由意思に基づくものだったか」です。会社側としては、①退職勧奨の方法が適正であったこと、②断る機会が十分与えられていたこと、③不当な脅迫はなかったことを証拠により示す必要があります。

03錯誤による退職意思表示の無効(民法95条)

 「錯誤」を理由とした主張もあります。民法95条は、意思表示の基礎とした事情についての認識が真実と異なっていた場合に、一定の要件のもとで意思表示の取消を認めています。

 例えば「懲戒解雇できると言われたが、実際には懲戒解雇できる事由がなかった。もし懲戒解雇できないと知っていれば退職届を出さなかった」という主張が、錯誤による取消の主張に当たります。この場合、意思表示の基礎とした事情(懲戒解雇可能性)に関する錯誤と、会社側がその事情を基礎として表示していたことが要件となります。

04「懲戒解雇すると脅した」という主張の問題

 本類型で頻出する主張が「懲戒解雇できる事案でもないのに、懲戒解雇すると告げられてパワハラを受けた状態で退職届を出した」というものです。

「懲戒解雇できない事案で懲戒解雇を告げる」ことの危険性

懲戒解雇できる正当な事由がないのに「懲戒解雇にする」と告げて退職届を取得することは、強迫に当たる可能性があります。「実は懲戒解雇できない」という事実が後に明らかになれば、強迫取消・錯誤取消の主張が成立しやすくなり、退職合意が無効と評価されるリスクが高まります。退職勧奨において懲戒を「交渉材料」として使うことは、後の紛争を拡大させる行為です。

 退職勧奨は任意の合意に基づくものでなければなりません。強制・脅迫・欺罔による退職は無効となるリスクがあります。正当な退職勧奨を適正な方法で行うことが、最大の防御となります。

05会社側としての防御方針。適正な退職勧奨と記録整備

 合意退職の効力を後に争われた場合に会社側が防御するためには、退職勧奨段階からの適正な対応と記録整備が不可欠です。

適正な退職勧奨のポイントと記録整備

①懲戒処分は正当な事由がある場合のみ告知する:懲戒解雇できる事由がない場合は告げない。あいまいな状況で脅しに使うことは強迫評価のリスクを高める
②断る機会を与える:「断っても不利益はない」「考える時間を与える」ことを明示し、即時署名を強要しない
③複数回の面談は回数・内容を記録:退職勧奨の日時・場所・出席者・内容を議事録等に記録する
④退職合意書の内容を明確に説明する:合意書の内容・効力について従業員が理解した上で署名したことを記録に残す
⑤弁護士への相談を案内する:「弁護士に相談する時間を与えます」という姿勢は、自由意思性の確保に資する

 退職合意書の取得と記録整備を適正に行っておくことで、後に「強迫・錯誤」を主張された際の防御力が格段に高まります(379番・380番参照)。具体的な退職勧奨の進め方については使用者側弁護士のサポートを受けることをお勧めします。

06まとめ

 合意退職の錯誤無効・強迫取消等による地位確認請求(紛争類型③)では、「懲戒解雇できない事案で懲戒解雇すると脅されてパワハラを受けた状態で退職届を提出させられた」として、退職意思表示の強迫取消(民法96条)または錯誤取消(民法95条)が主張されます。退職合意書があっても意思表示の瑕疵を理由に無効・取消となるリスがあります。正当な事由がない懲戒解雇の告知・断る機会を与えない即時署名強要・記録のない退職勧奨は、後の紛争において会社側を不利な立場に置きます。退職勧奨の進め方については使用者側弁護士のサポートを受けることをお勧めします。アドバイスします。

SUPERVISOR 弁護士 藤田 進太郎

監修者

弁護士法人四谷麹町法律事務所 代表弁護士 藤田 進太郎

東京大学法学部卒業。2003年弁護士登録。日本弁護士連合会会員労働法制委員会委員・事務局次長・最高裁行政局との労働審判制度に関する協議会協議員、第一東京弁護士会労働法制委員会委員・研修部会副部会長、経営法曹会議会員・第112回経団連労働法フォーラム報告担当者、労働審判員連絡協議会特別会員、日本労働法学会会員、東京麹町ロータリークラブ会員・2023-24年度幹事。
講演・著作 / 「会社経営者のための問題社員対応講座」(YouTube)

 

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Q&Aよくある質問

Q1. 退職勧奨の際に「このまま続けるなら懲戒処分もあり得る」と伝えました。強迫と評価されますか。

A. 実際に懲戒事由がある場合に「懲戒の可能性を告げる」ことは、必ずしも違法・強迫には当たりません。しかし、懲戒事由がない・または軽微な事由しかないのに「懲戒解雇にする」と断定的に告げた場合は強迫評価のリスクが高くなります。「懲戒の可能性がある」という表現の適否・事実との整合性・退職の任意性確保の状況等を使用者側弁護士とともに確認することをお勧めします。

Q2. 退職合意書に「一切の請求を行わない」と書いてもらいました。後から地位確認請求はできますか。

A. 「一切の請求を行わない」という条項があっても、合意退職の意思表示自体が強迫・錯誤を理由として取り消された場合、合意書全体の効力が否定されます。合意書に包括的な清算条項があることは強迫・錯誤取消の成立を妨げません。退職合意書の法的効力と強迫・錯誤の主張は別次元の問題です。

最終更新日:2026年5月31日


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