本ページの基となる解説動画
本ページの解説内容は、藤田進太郎弁護士による解説動画「在職中に労働審判を申し立てる社員の対処法」を素材として、当事務所が文章化しているものです。本ページの記載と動画の内容に齟齬がある場合や、より詳しい解説をご覧になりたい場合は、動画を直接ご視聴ください。
在職中申立てという特殊な局面
労働審判は、退職した社員からの申立てだけではなく、在職中の社員が会社に勤めながら申し立てることもあります。ハラスメントの慰謝料請求、未払残業代請求、降格処分の無効確認、配転命令の無効確認、人事評価への異議など、在職を前提とする請求類型が典型です。近時は、在職中に労働審判を申し立てる例も増えており、会社側として、在職中申立てに特有の困難を理解しておく必要があります。
在職中申立てが退職後の申立てと決定的に異なるのは、申立人と会社経営者・他の社員が、日常業務の中で引き続き顔を合わせる点です。朝の挨拶、業務の打合せ、会議、ランチタイムなど、申立人は通常の社員として出勤し、会社はその勤務に応じた労働条件を提供し続ける義務を負います。職場で顔を合わせ、その翌週には裁判所の期日でも対峙する、という関係が数ヶ月にわたって続くのです。
しかも、申立書には会社を批判する記述が連なっています。「会社はあそこがダメだ」「ここができていない」「経営者は社員を大切にしていない」といった主張が、法的主張の形式を取りつつも、しばしば感情的な筆致で書かれています。それを読んだ経営者が、普段と同じように穏やかに対応できるかというと、通常は難しいでしょう。職場での日常的な接触と、裁判所での対峙が並行する中で、経営者の感情は揺さぶられ続けます。
さらに、申立人は他の社員と日常的に接触します。社内で労働審判の話題が広まれば、他の社員の動揺を招き、職場の秩序に影響が出かねません。申立人が他の社員に自分の立場を説明し、同調を求めようとすることもあります。経営者としては、申立人を特別扱いも冷遇もせず、かつ職場秩序を維持するという、繊細なバランスの取り方が求められる状況に置かれることになります。
本ページでは、このような在職中申立ての特殊な局面で、会社経営者が踏み外しやすい罠と、踏み外さずに事案を処理するための判断軸を、会社側専門の弁護士の視点から整理します。結論を先取りして述べれば、「報復措置は絶対に避ける」という大原則と、「客観的に合理的な措置は逃げずに慎重に講じる」という運営方針を、両立させるための線引きが中心テーマとなります。
感情的判断が会社を傾ける危険
在職中申立てへの対応を誤る最大の原因は、経営者が感情的になることです。感情的になった経営者の判断能力は、驚くほど落ち込みます。これは経営者の人格や能力の問題ではなく、人間の判断機構に組み込まれた性質の問題です。
感情が判断能力に与える影響
仮に平時であればIQ150相当の優れた判断ができる経営者でも、強い感情に支配された瞬間、その判断力は平均以下にまで落ち込むことがあると言われます。怒り、屈辱感、裏切られたという感覚、恐れといった感情は、人の認知能力に大きな影響を与えます。視野が狭くなり、情報の取捨選択が偏り、リスクの見積りが歪み、長期的影響の考慮が抜け落ちる。こうして、平時であれば絶対に選ばない不用意な行動に、簡単に踏み切ってしまうのです。
このような誤作動は、普段は極めて合理的な判断を重ねている経営者ほど、意外性を持って立ち現れます。「自分に限って感情的な判断をすることはない」と過信している経営者こそ、危険です。感情は本人が自覚しないまま判断を歪めるため、自覚のないまま誤った行動に出るというのが典型的なパターンです。
元々は大した問題でなかった事案を拡大させる誤作動
実務で最も多く見られる誤作動は、元々は大した問題ではなかった事案が、感情的な行動によって会社にとって致命的な紛争に拡大する、というパターンです。
例えば、未払残業代請求として労働審判が申し立てられた事案を考えてみます。仮に適切に準備して対応していれば、会社側が100万円前後の解決金を支払うことで調停成立、という程度の事案だったとしましょう。経営者にとっては決して気持ちの良い支出ではないものの、会社経営への影響は限定的です。
ところが、申立書の内容に怒った経営者が、「こんなことをするなら今の業務を続けさせるわけにはいかない」と言って、申立人を配置転換し、さらに「勤務態度が悪い」と言って懲戒処分を下したとします。これが後に報復措置として権利濫用・無効と評価されれば、配転の無効確認請求、懲戒処分の無効確認請求、慰謝料請求が追加されます。元の100万円の紛争が、300万円、500万円、あるいはそれ以上の複合的な紛争に膨れ上がります。
こうして、感情的な行動が会社を傾けるという事態が生まれます。元の請求それ自体は限定的であったのに、経営者の一時的な判断ミスが、長期の労務紛争と大きな経済的負担を会社に招き入れてしまうのです。労働事件の実務では、このパターンが残念ながら繰り返し発生しています。
感情の暴走を防ぐための外部相談
このような誤作動を防ぐ唯一の方法は、社外の冷静な専門家に相談し、客観的な判断軸に立ち戻ることです。社内の役員や人事担当者だけで議論していると、経営者の感情に周囲が同調し、組織全体が冷静さを失う方向に向かいかねません。申立書に書かれた主張に対する怒りは、社内で共有すればするほど増幅されがちです。
一方、会社側専門の弁護士は、過去に多数の類似事案を見ており、感情に巻き込まれずに事案を俯瞰できます。「今の段階でこの対応に出ると、後にこういう評価を受ける」「この発言は記録に残って不利な材料になる」といった助言を、経営者の感情とは独立した立場で提供できます。在職中申立てへの対応においては、経営者が何かを実行する前に、まず弁護士に相談するという順序を、原則として例外を設けず維持することが、会社を守る最善策です。
基本中の基本:報復措置は避ける
在職中申立てへの対応における基本中の基本は、「労働審判を申し立てたこと自体を理由として、解雇・配転・降格・減給・仕事外しなどの不利益措置を講じてはならない」という原則です。これは一見当然のように見えますが、感情的になった経営者が最も踏み外しやすい一線でもあります。
なぜ申立て自体を理由とする措置は許されないか
労働審判は、個別労働関係民事紛争の解決を図るために、法律で正式に認められた制度です。労働者が自らの権利を主張するために労働審判を申し立てることは、労働者に認められた正当な権利行使であり、これを非難する根拠はどこにもありません。
経営者の感情としては、「在職中の社員が会社に喧嘩を売っている」「相当悪意を感じる」と受け止めることもあるかもしれません。その気持ちの部分に共感する余地があることは、労働事件に関わる弁護士として理解しています。しかし、法的に公的に認められた制度を利用したこと自体を、会社側がマイナスに評価して処遇に反映させることは、法制度の趣旨を没却する行為であり、どのような論拠をもってしても正当化できません。
したがって、労働審判の申立てに腹を立てて、それを契機として解雇、配転、降格、減給などの措置を講じた場合、報復措置(不利益取扱い)と評価され、権利濫用により無効とされる可能性が極めて高いのです。
報復措置と評価された場合の法的帰結
報復措置と評価された場合に会社が被る法的帰結は、極めて重いものです。
まず、当該処分自体が無効となります。解雇であれば雇用契約上の地位は存続し、解雇日以降の賃金(バックペイ)の支払いが命じられます。配転であれば元の職務への復帰、降格であれば元の地位への復元が命じられ、賃金差額の遡及的支払いも求められます。
次に、慰謝料請求が追加されます。報復措置により精神的苦痛を受けた、人格権を侵害された、というロジックで、申立人は別途慰謝料請求を立てることができます。事案によっては、数十万円から百万円単位の慰謝料が認められることもあります。
さらに、元の労働審判の本案に対しても悪影響が生じます。会社側が報復措置に出たという事実は、会社の姿勢を示すものとして、元の事案の審理全体の心証に影響します。仮に元の請求自体には理由がないと見られていた事案でも、「会社側がそのような行動に出るのであれば、主張のいくらかは認めてもよいのではないか」という方向に、委員会の判断が傾くこともあり得ます。
加えて、訴訟への全面移行という展開も現実味を帯びます。報復措置を受けた申立人は、労働審判での解決にとどまらず、会社への徹底的な法的対決に出るインセンティブが強まります。異議申立てから訴訟に移行し、1年から数年に及ぶ長期紛争となる展開です。
以上のとおり、「労働審判を申し立てたから解雇してやる」という感情的な判断は、元の問題の何倍も重い負担を会社に招き入れる悪手であり、絶対に避けなければなりません。
一呼吸置いて冷静に判断する
報復措置を避けるための実務的な行動指針は、「感情が高ぶっているときには、社員の処遇に関する重要な意思決定を一切行わない」ということに尽きます。申立書を読んで怒りが湧いてきた瞬間、申立人の顔を見てイライラした瞬間、申立人の発言に憤りを感じた瞬間、経営者がそのタイミングで下す人事判断は、ほぼ例外なく後悔に繋がります。
一呼吸置いて、時間を置いて、弁護士に相談して、それから判断する。このプロセスを例外なく徹底することが、在職中申立てにおける会社経営者の最大の自衛策となります。
報復と評価されやすい行動の具体例
「報復措置」と評価される危険の高い行動は、経営者が「これは報復ではない」と認識していても、客観的には報復と見られうるものが少なくありません。以下、典型例を挙げて注意喚起します。
申立て直後の解雇・懲戒処分
申立書が届いた直後、あるいは第1回期日の直前直後に、申立人に対して解雇・懲戒処分を行うのは、タイミング的に報復と評価されるリスクが極めて高い行動です。解雇事由や懲戒事由が客観的に存在するとしても、「労働審判の申立てが動機ではないか」という疑いを、委員会・裁判所は必ず持ちます。
どうしても処分が必要な場合でも、タイミングは慎重に設計する必要があります。申立前から認識されていた事由か、申立後に初めて発覚した事由か、処分までの調査プロセスは適正か、他の類似事案との均衡が取れているか、など、複数の論点を押さえた上で、弁護士の助言を受けながら進めるべき局面です。
遠距離地への配置転換・不利な職務への配置換え
労働審判申立て後に、申立人を遠方の事業所に異動させる、裁量の乏しい作業部門に配置する、仕事を取り上げて閑職に追いやる、といった配置転換も、報復措置と評価されやすい行動です。会社としては「申立人と他の社員の距離を置くことが業務上必要」「能力に見合わないので適正な職務に」と認識していても、タイミングが労働審判と近接していれば、報復の意図が疑われます。
配転命令は、業務上の必要性、職務内容や勤務地の不利益の程度、本人に生じる不利益と業務上の必要性のバランスなど、複数の要素で判断される制度です。在職中申立て中の配転は、これらの各要素を慎重に説明できる形で設計する必要があり、軽々に発動すると重大な紛争を招きます。
人事評価の引き下げと賞与の減額
労働審判申立て後の人事評価において、申立人の評価を大きく引き下げ、それに連動して賞与を減額する、昇給を停止する、といった措置も、報復と疑われやすい行動です。人事評価は会社の裁量に委ねられる領域ですが、その裁量の逸脱として違法とされる余地があります。
過年度の評価推移、他の社員との評価分布、評価基準の一貫性などを踏まえて、「労働審判とは独立した、客観的な評価プロセスの帰結である」と合理的に説明できる状況でなければ、引き下げは控えるのが賢明です。
仕事外し・情報からの疎外・接触回避の強要
正式な処分としての形は取らずに、事実上のいじめ・嫌がらせとして、申立人から仕事を取り上げる、重要会議から外す、情報共有の対象から除外する、他の社員に接触を避けるよう指示する、といった行動も、報復措置と評価される危険があります。
これらは「就業環境配慮義務」の違反として、別途慰謝料請求の対象となり得ます。会社側からは「申立て中なので距離を取る配慮」と認識していても、申立人側からは「報復的に職場で孤立させられた」と主張される余地が十分にあります。申立人の日常業務は、申立て前と同等の待遇で維持するのが原則です。
経営者・管理職の不用意な発言
形式的な処分ではなくとも、経営者や管理職の不用意な発言が、後に報復の意図を示す証拠として使われるケースも少なくありません。申立人本人や他の社員に対し、「労働審判なんて申し立てるやつは要らない」「あいつは会社を裏切った」「他の社員も見ているぞ」といった発言をすると、録音・メモ・証言により記録されます。
労働審判の期日で、こうした発言があったことが主張されると、会社側の姿勢を示す材料として委員会の心証に強く影響します。在職中申立て中は、経営者も管理職も、当該社員や労働審判に関する発言を基本的に控えるという運用を、社内で徹底する必要があります。
合理的措置は逃げずに慎重に行う
ここまでは「報復措置は避ける」という原則を強調してきましたが、この原則を機械的に適用しすぎると、逆方向の誤りに陥ります。すなわち、本来であれば講じるべき合理的な措置まで萎縮して行えなくなるという事態です。労働審判を申し立てられたことを契機に、必要な労務管理を怠るのは、別の意味で会社の経営を脅かします。
萎縮による放置がもたらす弊害
「労働審判を起こされた社員だから、何もしない方が無難」という判断は、短期的には安全に見えますが、中長期では会社組織を蝕みます。以下のような弊害が生じるためです。
第一に、他の社員の不満が蓄積します。問題行動を起こしている社員が、労働審判を申し立てているというだけで注意指導を受けない、処分を免れている、と周囲の社員は見ます。「労働審判さえ申し立てれば何をしても処分されない」というメッセージを、会社が無言で発することになってしまうのです。
第二に、他の社員が被害を受けている場合、その被害が継続します。申立人が他の社員にハラスメントをしている、横領等の不正行為を続けている、顧客に迷惑をかけている、といった実害が生じているのに、会社がそれを放置すれば、被害を受けている社員・顧客の信頼を損ないます。会社経営者には社員を守る責務があり、ハラスメント等の加害者から社員を守らずに見殺しにすることは、経営者の職責の放棄に他なりません。
第三に、会社の秩序が崩壊します。労働審判を申し立てた社員だけが特別扱いされ、通常であれば許されない行動が黙認されるという状況は、他の社員の規律意識を緩ませ、職場の秩序を根底から揺るがします。経営者としてそのような環境の下で働くこと自体が嫌だと感じる社員が出てくれば、離職にも繋がります。
労働審判が威嚇・牽制に使われることを許さない
会社経営者として最も警戒すべきは、労働審判が威嚇・牽制の手段として使われるという事態です。
想定されるシナリオはこうです。ある社員が、会社から厳しく注意指導されている、あるいはこれから懲戒処分を受けそう、解雇されそうな局面にあるとします。そこで社員が先手を打って労働審判を申し立て、以降は「労働審判を起こした自分に対して会社は何もできないはず」という前提で振る舞う。結果として、本来であれば当然に受けるべきだった注意指導や処分を、免れる。これが許されてしまえば、労働審判は会社の労務管理を麻痺させる武器として機能してしまいます。
こうした事態を防ぐには、労働審判の申立てがあっても、それとは独立した合理的事由がある場合には、所定の手続きを経て適正に措置を講じるという姿勢を、会社が毅然と示す必要があります。「労働審判を申し立てたからといって、会社の労務管理権が停止するわけではない」という当たり前の原則を、現実の運用の中で貫くことが重要です。
合理的措置を講じるべき典型場面
労働審判中であっても、逃げずに合理的措置を講じるべき典型場面は、以下のとおりです。
ハラスメントをしている場合:申立人が他の社員にパワーハラスメントやセクシュアルハラスメントを行っている場合、会社には他の社員の就業環境を守る義務があります。「労働審判を申し立てた社員だから、注意したらまた食ってかかられる」と恐れて放置するのは、経営者の職責放棄です。冷静かつ穏やかな口調で、具体的事実を指摘して注意指導を行い、改善を促す必要があります。
パフォーマンス不足の場合:仕事の成果が著しく低い、期限を守れない、品質に問題があるといった場合、教育指導は会社として当然に行うべきです。「労働審判を起こしているから、能力不足を指摘すると反発される」と萎縮して指導を怠れば、会社の生産性が低下し、他の社員にも悪影響が及びます。客観的にできていないところを冷静に指摘し、どう改善すればいいかを示す指導は、萎縮せずに継続すべきです。
横領・業務上横領・背任がある場合:明白な不正行為、会社資産の横領、顧客情報の持ち出し、取引先からのキックバック、その他の重大な非違行為が判明した場合、懲戒処分・解雇を躊躇する理由は一切ありません。「労働審判を申し立てさえすれば横領しても解雇されない」という結果は、会社の規律として到底許されず、ここで処分を免れさせることが、かえって会社全体の危機を招きます。
勤務態度不良の継続:遅刻、無断欠勤、指示無視、周囲との協調拒否など、基本的な勤務態度に重大な問題がある場合、注意指導から段階的懲戒処分に至るプロセスも、通常どおり進める必要があります。労働審判が申し立てられているからといって、基本的な労務管理プロセスを止める理由にはなりません。
報復と合理的措置の線引きの実務
「報復は絶対に避ける」「合理的措置は逃げずに講じる」を両立させるには、客観的な線引きの基準が必要です。実務上、以下の要素を総合考慮して「これは報復か、合理的措置か」を判断していきます。
動機の区別:申立てを動機とするか、別個の事由を動機とするか
線引きの最も基本的な軸は、措置の動機です。
措置の動機が「労働審判の申立て自体」であれば、報復措置です。「申立てをしたことが許せない」「自分を訴えた社員を罰したい」という心情が動機の大宗を占めている場合、その措置は報復として無効となる可能性が高いです。
一方、措置の動機が「労働審判の申立てとは別個の、客観的に認められる事由」であれば、合理的措置として許容される余地があります。具体的には、ハラスメント、横領、勤務態度不良、パフォーマンス不足、業務命令違反、無断欠勤など、申立て前から存在していた、あるいは申立てとは無関係に発生した事由が、措置の動機となっている場合です。
ただし、動機は外形的には見えにくいものです。会社が「これは申立てとは関係ない、勤務態度を理由とする処分である」と主張しても、客観的な事情から「やはり申立てへの報復ではないか」と判断されれば、報復措置として無効とされます。動機を客観的に立証できる状況を作り込むことが、実務的には重要となります。
時系列:申立て前からの事由の存在
措置の対象となる事由が、労働審判の申立て前から既に存在していたことを客観的に示せれば、報復ではないという主張の大きな支えとなります。申立て前の注意指導記録、始末書、面談メモ、警告書、顧客クレームの記録などが、時系列を裏付ける重要な証拠です。
逆に、事由の発生が申立て後である場合は、「申立てが動機ではないか」という疑いが強まります。もちろん、申立て後に発覚した事由や、申立て後に初めて発生した事実に基づく措置もあり得ますが、その場合は「なぜ申立て後に発生した事実なのに、申立てが動機ではないと言えるのか」という説明責任が、会社側にのしかかります。
他の類似事案との均衡
他の社員が同種の問題行動を起こしたときに、どのような処分を受けていたかも、重要な判断要素です。他の社員であれば注意指導で終わっていた事由を、申立人に対してだけ解雇にする、というような均衡を欠く処分は、他の社員との差別的取扱いとして、報復と評価されやすくなります。
会社としては、処分の相場観を、社内の前例に照らして説明できる状況を作っておく必要があります。過去の同種事案の処分記録、懲戒規定の適用の一貫性、類似事案の社内判例など、均衡を示す資料を整えておきます。
適正手続きの履践
処分までのプロセスが、社内規程に則って適正に進められたかも重要です。就業規則上の懲戒手続きとしての要件、弁明の機会の付与、懲戒委員会の開催など、通常の処分と同じプロセスを経たことを示せれば、「申立てへの感情的反応として急ぎ下した処分ではない」という主張を強化できます。
手続きを省略して急ぎ処分を下すと、「感情的な反応ではないか」という疑いを招きます。所定の手続きに沿って、弁明の機会も与えた上で、慎重に処分を決定するプロセスを踏むことが、手続的正当性を裏付けます。
タイミングの配慮
処分のタイミングが労働審判期日と不自然に接近している場合、報復の疑いを招きやすくなります。期日直前や直後を避け、客観的に必要な範囲で処分の実行タイミングをずらす配慮も、実務上は有効です。
もちろん、ハラスメントや横領のように緊急対応が必要な事案では、タイミングの配慮よりも被害拡大防止を優先すべき場合もあります。どのタイミングで処分を下すかは、緊急性と報復と見られるリスクを天秤にかけて判断する領域であり、弁護士と密接に協議しながら進めるのが安全です。
弁護士相談を必須とする運用
以上の要素を自社内で総合判断するのは、経営者にとって簡単ではありません。在職中申立て中の人事判断については、どんなに小さな判断であっても、実行前に弁護士に相談するという運用を固めておくことが、会社を守る最善策となります。
「これくらいなら大丈夫だろう」という経営者の直感が、後で致命的な誤作動を招いたケースは数え切れません。小さな判断ほど、事前に弁護士に相談するハードルを下げておくことが、結果として会社の負担を最小化します。
申立人の問題行動が審理対象となる場合
在職中申立ての労働審判手続きにおいては、申立人自身の過去の問題行動や、会社が講じようとしている措置そのものが、審理対象となることが少なくありません。この構造を理解しておくと、労働審判手続きの中で会社側が主張を展開するときの視座が広がります。
申立人の過去の問題行動が審理対象となる場合
例えば、申立人が「パワハラを受けた」と慰謝料請求を立てた事案では、パワハラの有無を判断するにあたり、申立人自身の勤務態度や過去の問題行動も、当然に審理の視野に入ります。申立人が業務上の指示に従わず、上司の注意指導に繰り返し反抗していた、他の社員に嫌がらせをしていた、といった事情があれば、それは「上司の発言や対応がパワハラに当たるか」の判断において重要な背景事実となります。
同様に、解雇無効確認の請求であれば、解雇事由としての申立人の問題行動そのものが中心的審理対象になります。未払残業代請求であれば、申立人の実労働時間の把握、労働時間に算入されない時間の有無、申立人の業務遂行の実態が審理対象に加わります。
会社側は、申立人の主張に対する反論として、申立人の行動の経過を客観的に整理して提示することになります。この整理の過程で、申立人が在職中に行ってきたさまざまな行動が、証拠とともに可視化されていきます。
会社が講じようとしている措置の当否が審理対象となる場合
もう一つのパターンは、労働審判手続き中に、会社がこれから講じようとしている措置の当否が審理対象になるケースです。例えば、申立人からの労働審判の過程で、会社が「このような問題行動があるから懲戒処分を検討している」「このような能力不足があるから配転を検討している」といった主張を行うと、その検討中の措置の妥当性自体が、労働審判委員会における議論の対象となることがあります。
会社から見ればこれは厄介な側面を持ちます。本来は会社の裁量として静かに検討すべき将来的な措置が、手続きの中で可視化され、申立人側から先回り的な反論を受ける、ということが起こるからです。
他方で、これは会社側の合理的主張を委員会に伝える機会でもあります。申立人の問題行動の実態、会社が検討している対応の合理性、労務管理上の困難などを、労働審判の手続き内で十分に主張していくことで、「会社側に一定の合理性がある」「申立人側にも問題行動がある」という認識を委員会に形成してもらうことができます。結果として、元の労働審判の請求に対する解決条件を、会社側に有利な方向に傾けることに繋がります。
将来の措置についての主張の是非
「まだ実行していない将来の措置について、労働審判手続き内で主張することが適切か」には、慎重な判断が必要です。手続き内で主張することで、委員会に会社側の立場を理解してもらえる反面、申立人側に予告のような形で会社の方針を知らせてしまうと、証拠隠滅や先行的な法的対抗措置を招く可能性もあります。
どこまで将来の措置に言及するか、まだ実行前の検討段階の事項をどこまで書面化するかは、戦略的な判断です。弁護士と相談の上、労働審判全体の解決目標に照らして決めることになります。
誠実に手続きに臨むことの価値
在職中申立てにおいて会社側が取るべき姿勢は、手続き内で真摯に反論を尽くし、会社の立場と合理性を委員会に理解してもらうことです。手続きから逃げる、無視する、形式的に対応する、といった姿勢は、申立人だけでなく委員会からも会社の誠実さを疑われ、心証を悪化させます。
在職中申立てでは、申立人と会社の関係が継続中であるだけに、手続きの過程で形成される相互理解が、事件解決後の関係にも影響を及ぼします。労働審判手続き内でベストを尽くすことで、問題解決に近づくこともありますし、解決しない場合でも、会社側の誠実な対応が後の訴訟局面で評価される土台となります。
自社の労務管理見直しの契機として
在職中申立ては、会社経営者にとって負担の大きい出来事です。しかし、視点を変えれば、自社の労務管理を見直す絶好の機会でもあります。申立てを通じて浮き彫りになる自社の弱みを放置せずに改善すれば、中長期的には会社の労務管理体制は格段に強化されます。
申立てが明らかにする自社の問題点
申立書の主張に対する反論を組み立てる過程で、経営者は自社の労務管理の実態を客観的に振り返らざるを得なくなります。労働時間管理は正しく行われていたか、労働契約書や就業規則は現行の運用と一致しているか、人事評価の基準と運用は明確か、ハラスメント防止体制は機能していたか、管理職の労務管理スキルは十分か、といった問いが、一件の事件を通じて一気に可視化されます。
多くの中小企業では、「長年、何となくの運用でやってきた」領域が、実は労働法のルールに照らすと不十分であった、ということが、労働審判の対応過程で初めて発見されます。申立人の主張に対する反論を組み立てる中で、「会社として明確な記録がない」「根拠となる書面がない」「運用ルールが曖昧だった」ことに気づくのです。
見えた問題点を改善することの価値
労働審判の中で明らかになった自社の問題点を、事件解決後にそのまま放置すると、同種の紛争が再発するリスクが残ります。別の社員から同じ論点で労働審判を申し立てられる、あるいは労働基準監督署の監督対象となる、といった展開は、一件の労働審判で明らかになった弱みを放置したままの会社で、現実に繰り返し起こります。
一方、見えた問題点を一つずつ改善していけば、自社の労務管理体制は事件前よりも強化されます。労働契約で約束したことが書面上も実態上も守られている労務管理、ルールが明確で運用が一貫している人事制度、管理職が労務のルールを理解して行動できる組織、社員が不公平感を抱かずに働ける環境、といった望ましい状態に近づきます。
会社の弱みが消えることは、会社経営者にとっての安心材料であるのはもちろんですが、働く社員にとっても大きなメリットとなります。自分の労働条件や評価の根拠が明確で、会社が自分との約束を守っていると実感できる職場環境は、社員の定着・エンゲージメント向上にも直結します。
改善に着手すべき主要領域
事件解決後に改善に着手すべき主要領域としては、次のようなものが挙げられます。
一つ目は、労働時間管理の厳格化です。タイムカードの運用、残業申請の実務、管理職の労働時間把握、固定残業代の要件充足など、未払残業代紛争の火種を潰していきます。
二つ目は、就業規則・各種規程の整備です。就業規則の記載と実運用の一致、懲戒規定の明確化、ハラスメント防止規程の整備、テレワーク規定や副業規定の整備など、紛争時に会社の拠り所となる文書を整えます。
三つ目は、人事評価の運用改善です。評価基準の明確化、評価面談の実施、評価記録の保存、フィードバックの制度化など、評価を巡る紛争を予防する体制を整えます。
四つ目は、管理職の労務管理教育です。パワハラにならない注意指導の方法、労働時間管理の基本、懲戒処分の前提となる記録の残し方、労働審判や訴訟になっても通用する対応の仕方など、管理職が労務管理を正しく行える研修を実施します。
これらの改善は、一度の労働審判を契機に一気に全てを進めることは難しいかもしれません。しかし、事件が明らかにした弱点の中で、最も優先度の高いものから順に着手し、数ヶ月から1年をかけて体制を整えていけば、会社の労務管理は質的に一段上の水準に引き上がります。
当事務所のサポート体制
弁護士法人四谷麹町法律事務所は、会社側(使用者側)専門の法律事務所として、在職中申立ての労働審判事案に数多く取り組んできました。在職中申立てに特有の「報復措置を避けつつ合理的措置は講じる」という繊細なバランスの取り方について、実務に即した助言を提供しています。
感情的判断の回避サポート:申立書を受け取った直後、経営者が感情的になりがちな時期に、冷静な第三者の視点で状況を整理します。当事務所への初回相談では、まず申立書の内容を弁護士が読み込み、「今の段階で実行してよい行動」と「絶対に避けるべき行動」を明確にお伝えします。経営者が一人で抱え込む時間を最小化することが、判断ミスの予防に直結します。
日常的人事判断への継続的助言:在職中申立て中は、申立人の勤務に関する日々の判断が継続的に発生します。「今日の会議に申立人を呼ぶべきか」「この業務指示は出しても大丈夫か」「他の社員へのこの対応は問題ないか」といった細かな相談にも対応します。小さな判断ほど、事前に弁護士に確認する運用が、後の大きな紛争を防ぎます。
合理的措置の設計支援:ハラスメント対応、懲戒処分、配転命令などの合理的措置が必要な場面では、措置の動機の客観的立証、時系列での事由の裏付け、他事案との均衡、適正手続きの履践、タイミングの配慮といった各要素を整えて、報復と評価されないよう設計します。弁明の機会の付与、懲戒通知の文言、社内記録の整え方まで、細部にわたりサポートします。
労働審判手続き本案の対応:もちろん、労働審判の本案(申立てに対する答弁、期日対応、調停対応、異議申立ての判断)もあわせてサポートします。事件そのものの解決と、その期間中の日常判断の両面を一貫して担えるのが、会社側専門弁護士に依頼する強みです。
日本語レベルのコミュニケーション助言:経営者が申立人や他の社員とどう話すかという、日常会話のトーンや表現レベルのアドバイスも提供しています。「こういう言い方は避ける」「こう言い換える」といった細かな指摘が、後の紛争の火種を消していきます。
事後の労務管理体制強化:事件が解決した後には、事件から見えた自社の弱みを改善する支援も行います。就業規則の見直し、管理職研修、人事評価制度の整備など、予防法務の観点から中長期の労務管理体制を底上げします。
在職中の社員から労働審判を申し立てられた場合、何かを実行する前に、まず当事務所にご相談ください。初動の24時間から72時間の判断が、後の事件の帰趨を大きく左右します。感情的な行動に出てからでは取り返しがつきません。ご連絡をお待ちしております。
よくあるご質問
Q. 在職中の社員から労働審判を申し立てられました。解雇してよいですか。
労働審判の申立て自体を理由とする解雇は、報復措置として権利濫用により無効となる可能性が極めて高いです。申立てとは別個の、客観的な解雇事由(ハラスメント、横領、勤務態度不良等)がある場合には、所定の手続きを経て適正に解雇することは差し支えありませんが、タイミング・動機・手続きの全てを慎重に設計する必要があります。必ず事前に会社側専門の弁護士にご相談ください。
Q. 申立人と顔を合わせるのが嫌です。別の事業所に異動させたいのですが。
感情的な理由による配転は、報復措置として権利濫用と評価される可能性が高いです。配転には業務上の必要性、勤務地・職務変更の合理性、本人の不利益との比較衡量が求められ、労働審判申立て後のタイミングでの配転は特に慎重な設計が必要です。「顔を合わせたくない」という動機では到底正当化できません。業務上の必要性から配転を検討する場合でも、必ず事前に弁護士にご相談ください。
Q. 申立人が他の社員にハラスメントをしています。注意していいですか。
むしろ注意指導は必要です。他の社員の就業環境を守ることは会社の責務であり、「労働審判中だから」という理由で放置するのは経営者の職責放棄です。ただし、注意指導の方法は冷静・穏やかに、具体的事実を指摘する形で行ってください。感情的な叱責はかえってパワハラを主張される材料になります。注意指導前に、方針と表現を弁護士と確認することをおすすめします。
Q. 申立人の業績が低いので評価を下げたいです。問題ありませんか。
業績評価は会社の裁量ですが、労働審判申立て後の評価引下げは、報復措置と疑われやすい領域です。客観的な評価基準、過年度の評価推移、他の社員との評価分布の一貫性など、「労働審判とは独立した客観的プロセスの結果である」と説明できる状況を整えた上で、通常通りの評価を実施する、というのが基本線です。感情的に評価を下げるのは厳禁です。評価面談の進め方を事前に弁護士と整理することをおすすめします。
Q. 申立人を重要なプロジェクトから外したいのですが。
仕事外しや情報からの疎外は、形式的な処分でなくとも報復措置として評価される可能性があります。就業環境配慮義務違反として別途慰謝料請求の対象になるケースもあります。業務上の合理的な必要性が明確で、申立人に対する不利益が限定的で、他の社員との均衡が取れている場合に限り、通常の配置判断として検討可能です。「労働審判中だから外す」という発想では、ほぼ確実に問題化します。
Q. 申立人が横領をしていることが判明しました。解雇してよいですか。
横領は重大な非違行為であり、懲戒解雇の事由となります。労働審判中であっても、明白な横領等の非違行為があれば、適正な手続きを経て懲戒処分・解雇することは許されます。むしろ放置すれば「労働審判さえ申し立てれば横領しても処分されない」という誤ったメッセージを社内に与えます。ただし、調査プロセスの適正性、証拠の確保、弁明の機会の付与、懲戒委員会の実施など、手続的適正を完全に整えることが必須です。必ず弁護士と連携して進めてください。
Q. 申立書を読んで腹が立ち、申立人に直接抗議したいのですが。
絶対に避けてください。感情的な抗議は、パワハラの追加主張、報復措置の立証資料、人格権侵害の慰謝料請求の根拠として、申立人側から活用されます。在職中申立ての場合、経営者と申立人の直接のやりとりは、最小限の業務上のコミュニケーションに限定し、労働審判に関する話題は一切出さないのが原則です。どうしても言いたいことは、弁護士を通じて答弁書で正式に主張してください。
Q. 他の社員に、誰が労働審判を申し立てたか伝えてよいですか。
原則として、労働審判が申し立てられた事実は、対応に必要な最小限の関係者にのみ共有するべきです。他の社員に事件の存在や内容を広く伝えることは、申立人のプライバシー侵害、職場での孤立助長、その他の観点で別途の紛争を招きかねません。関係者ヒアリングで事実確認が必要な場合に限り、必要な範囲で概要を説明することはあり得ますが、範囲・内容の判断は弁護士と協議の上で行ってください。
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